---------------------------------------- Copy Right Kazuki Kijima 2011 www.geocities.jp/kazu_00015 kazu_00015@yahoo.co.jp ---------------------------------------- ---------------------------------------- 悪徳レストラン ---------------------------------------- --南仏1-- あっ、ああ、は… 彼以外は誰もいないちいさな館の、 彼以外は誰もいない部屋で、 アンドレは自慰をしていた 明かりを落とした部屋の 夜明けを迎えようとしている水平線がまだ まどろんでいる薄暗いカーテン越しの光に、 まだ若い、かれのからだが胸や腹筋の陰影を 作りながら。 アンドレは自分で自分の乳首をこすり、つ ぶしていた まだ少年めいた、若い男の息が、きりきざ んだ花びらとなって、部屋の中の夜明けの空 気に溶けていくそのみづからの声を、 ベッドのおおきな白い枕に頬をせつなく擦 り付けながら、痛い、切ない、自慰の感情を、 増幅するために、アンドレはみづからのあえ ぎを、両耳のくびすじ側のおくにある、 快楽と肯定をつかさどる何億年も前にでき た古代の一対の竜のおとし子で、聞いていた 快楽の半径が収束し、加速の回転がきわめ て重い中性子のちいさな星のように、 まだわかいかれえだのようなスケートをす る少女の黒いドレスのように、ひきしぼられ て、 アンドレは、眉間に苦悶の表情を、寄せた ひだりのおやゆびで、左胸の乳輪と、 ひだりのひとさしゆびで、右の胸の乳輪を、 おおきくかるく、じらすように触れ、また かるくはなすストロークの途中、ときどき思 い出したように、つよく、胸の筋肉ごと、つ よく、わしづかみに、両のたなごころで、に ぎりこんだ … こえにならない快楽に、アンドレは身をよ じった。 かれの背後の、まだわかくちいさくまるい、 臀裂を野獣の両手で限界にまで引き広げられ、 ながく、巨大な堅くたくましい欲望を叩き込 まれていることを、夢想して、 アンドレは、首をのけぞらして、みづから の前の、金属の光沢にきらめく、白銀の若い 短刀を、きたえあげた。 自分の分身でもある、手足のながいわかい バレリーナが、氷上の舞を終えようと両手を そのきゃしゃなからだに抱き戻し、その回転 が、絶頂の激痛に、ひきしぼられた 少女のむなもとの装飾の、きらめきの、ス パンコールが暗い脳裏に、 いっかい、 にかい、 …さんかい、きらめいて、アンドレは、そ のたびごとに、背後のトニを食いしばるまだ 若い過去の、経験を、なぞった。 キングサイズの、ベッドシーツに、両手、 両脚を自由になげだし、 アンドレは、トニにのしかかられている、 夢想のなかに、まだ、いた。 女…。 俺の、なかにいる、おんな…。 アンドレは、意識が覚醒しつつある自分を 感じ その彼が、粘液でよごれたシーツのうえに、 自分の臍の下の丹田と恥毛がうずもれている ことを自覚することに、内心、残念さをこめ て、舌打ちをした 快楽のなかに、永遠にただよっていたいの、 に… 粘液の、快楽の過ぎ去ったつめたさは、す でに不快のよごれであり、 認識という、覚醒はもはや業務の上の朝が、 はじまったことを意味して、いた。 アンドレは、十五分ほど、快楽の余韻にま どろんだあと、 くりかえしをベースに、少々の新しいスパ イスを期待するあたらしい朝の光をうけいれ るがために、 カーテンを、開けた。 性の夫でもある友人とは、毎日会えるわけ ではないので、 彼は毎日やすむ前にはシャワーを浴び、 若いひげの処置をしてから、 あらいざらしのさらさらしたシーツに、全 裸で眠るのだった あたかも、そこにはいない過去と現在の、 友人の肉体のかたわらに、寄り添うように フランスの紺碧海岸、ひがしに進めばほど なくイタリアにいたる、海岸に、その食堂は 立っていた 彼は、地中海の海産物と、陽光あふれる大 地からの恵みを堪能するために、このフラン スのあたたかいほうの、海岸を選んだのであ る 漁港は、普通、浜としての湾から歴史が始 まり、 また、漁労の業務としては、ボートとして のちいさな船を浜に綱で毎回の漁が終わると き引き上げるすがたからそれは始まる そのうち浜を斜面のままコンクリートで固 めた時代を経て、大型船で、漁が沖に出るよ うになると、近くの岩礁をつぶして、水揚げ のための方形の雑魚場を作るのである 賑わいにより、その方形は拡大され、屋根 がつくようになる そのころの漁の規模になると、漁港に至る 道路を通じて、近隣からそれを買い求める人 々が出入りするようになる 基本は、どこの市場も、個人の客を嫌う 自然の深み(地中海はアンドレの記憶の中 の、北海などと比べてその程度は微々たるも のだったが)をくぐりぬけて度胸と知恵の収 穫を、海の幸を得た漁夫の複数が、港に上げ るとき、 かれらは大抵、「現場を知りもしない」素 人から無知な、そしてなおかつ失礼な言葉を 疲労と誇りの混じる状態では、聞きたくは、 ないのだ やんごとなき小官僚の奥様が、スーパーマ ーケットのリテールパックを求めるような態 度で来るのならば彼らはあたまから潮水をぶ っ掛けるだろう アンドレはそのことを承知しているので、 よっぽどまとめて材料が入用でない限り、奥 のほうの仲買人の事務所には行かない アンドレは、鮮度の関係から、漁港には、 毎日通うが仕入れる量など、ちいさいいけす 二つ程度の量にすぎなかった ふつう、岬にはよい浜など、ない 浜とは、直線的ななだらかな海岸に平行し てながれる緩やかな潮流が、まんべんなく砂 粒を堆積させていくところに発生するもので、 小半島の地形で、それが可能なのは大抵そ の突端である岬の片側だけであった 片方の側によい浜が、それに沿って流れる 潮流によって形作られるとき、 その潮流は、岬の鼻で、沖の水平線へと、 海という「宇宙空間」にむけて「打ち上げら れ」てしまう そして、その岬の向こう側には、アンドレ のような自分では直すことができないがゆえ にみづからの性癖に対しても誠実に生きるし かない青年が恋人の肉体としてとしてあこが れるような、ごつごつした、 黒い岩礁の風景が開くのである アンドレの手に入れた壊れかけた建物は、 その岬の岩の上にあった 漁港までは、三キロ、農産物の市場までは 四キロほど離れていた その建物を、手に入れてから修繕し、かれ はペンキは自分で塗った くすんだ館は、イギリス風の白い建物にな った 格安で手に入れることができた、というこ とは 営業の物件的には商品価値がないかも知れ ず アンドレはつねに帳尻を考えながら試行錯 誤を繰り返していた うまくいかないばあいは、早々に切り上げ て、第二の企画地を考えなければならない この物件の立地には、当初から不採算なと ころがあった まず地元の人間以外には知られていない土 地であり なおかつ一番近い都市圏よりは、すこしは なれていることであった 交通の便も悪く、事実上車でこなければな らないが、そうなると、自動的に夕食のメニ ューにワインを加えることは難しくなる やや無謀であった 観光地の近くで、宿泊施設が期待できる土 地でないと、純粋な食堂だけで営業が廻ると は、考えにくい しかし、賃貸にしろ、購入にしろ、観光地 の周辺は営業費が高価で、 アンドレは時代の把握をあとになって知っ たのであったが、戦後復興による宿泊旅行の 一時的な流行も一段落している現在、 高いコストを払ってまで、そのパイに食い こめる期待は、薄いといえた この岬での試行は実験であった おそらく、一年、ぎりぎり引き伸ばして二 年がリミットであるが 実際は、二年もいられないだろう 営業を停止して、最低限度の生活をするだ けの資金は約五年分あったが、 認知されるまで営業を継続するためには、 赤字覚悟でまわさなければならず、 その場合は、撤退して次の分の企画にまわ せるだけの資金を取り崩すわけにはいかない ので、営業をしている限りのリミットは、実 際は一年であった 赤字でも、都市近郊で再試行するためには、 一年以内できりあげればなんとかなるはずだ った 一等地を融資の資本で買占め、巨額の先読 みを投下し、多くの従業員と熟練したマスタ ーを外部からスカウトして、ブルドーザーの ように営業すれば「圧力」として無敵になる のは間違いないだろうが それは不動産や銀行の発想であり、 また、好況が永続的に連続する限りにおい て有効な発想で、不況や保守色のある時代の それではない それに、アンドレは不動産業ではなく、い っかいの料理人であった また、かれの発想には、規模をおおきくす るという発想がなかった しかしそれがアンドレの限界でもあった かれは、よき調理がそのまま経営につなが るような理想を持っていた それはどちらかといえば、拡大よりも忍耐 のほうに、 好況に強い業態よりも不況に強い実力のほ うを重視しているといえた 融資を当てにしたり 素人を金で釣って仕込む、という発想は、 アンドレにはなかった そういう、マンネリ化しているのに怠惰と 惰性でシリーズ化されるあくびが出るような ドラマは、たぶん「みずっぽくてとてもまず い」にちがいない 惰性、というものはシステムを作れば自動 的におかねがもうかることを期待する発想で、 それはあまりにも好況というものに対して、 人任せである 人任せは、大味になるのではないか、とア ンドレはいつも危惧していた 孤独が得意な人間は、孤独を生かすべきで はないのかと、アンドレはおもっていたが、 ここまでくると、それはすでに経営ではない のかもしれない 食堂のそばにはやたらに桁のおおい数字を もつ国道が、海岸線をはしっていた その道路は、アンドレの館の前を大きく曲 がるので夜間は車のヘッドライトが、海の虚 空に向かっておおきな微分を、夜にむかう光 のオールとなって大きくこぐことになるので ある その時間は、深夜が暗黙知的に終り、潜在 的に早朝がはじまっていることを意味してい た。論理ではなく、言語でなく、無意識が過 去の経験を閲覧するのがいわゆる第六感であ る 夜明け前に、起きて、甘く重い空が夜明け にアントシアニジンの紺、紅:べに、むらさ き、あさの白いよわい光がくわわることによ るヘリオトロープの、快感にみもだえるあさ のシーツのダイナミックな染色を雲と空に、 見ながら 彼は毎日漁港に通うのだった うすむらさきのけはいがあるおおあざみの アーティーチョークの畑をぬけて、帰って くるとき、彼は、期待と、不安を今日の食材 の新鮮さで、毎回感じるのだった 想定する人数分の仕込みが終わるのは、い つも午過ぎで、 それから煮込む品目の調理をやっと開始す る すべての店がそうであるように、仕込みは 常に毎日の小さな賭けであった 日持ちのしない品物を、見込み違いで仕入 れてしまうと、それは廃棄として道づたいの ささやかな菜園の肥やしとなる もちろん彼自身のまかないにまわるものも あるにはあるが、十人分の食材など、ひとり で食べきれるものではない 彼はしかし、ささやかな仕込を続けること がたとえ食材が廃棄に廻っても、自分のでき る唯一の潜在的な広報活動である、とおもう ことしか出来なかった かれは、そのようなことも見越して、出来 るだけ廃棄が出ないような工夫にも腐心した 家の南にある、あまり大きくはないいけす もその一環である また、光熱費に関しても大量のパスタや揚 げ物をおこなうような、瞬間的に強い火力が 必要なのではない用途に関しては、かれは排 煙を工夫した炉で、流木や雑薪を利用するこ とにしていた これは、近隣の自然や漂着物に関心と話題 を提供する意外な副産物になった うっかり他人の敷地にはいってしまう危険 があるにはあったが アンドレは、当分、ここを地域のパブのよ うなものとして考えざるを得なかった 信用するかどうかということを別にして、 基本的に他人の笑顔が好きなアンドレは、す くなくとも、そのことだけはささやかな快感 であった まず昼食として、はらいっぱい食べること の出来るメニューを三、四ほどのみ用意し: 客は近傍の漁港や農村の肉体労働者である 夜は酒はワインだけを出した 蒸留酒も在庫はあることはあるが、それは 人柄がわかっているなじみにのみ、出すこと にしていた というのは、酒癖の悪いいちげんさんに、 酔ったいきおいでテラスの大ガラスを二枚、 派手に割られたからである …おきゃくさん 割ったあとしばらくねっころがって勝手に じたばたしていた、客は、じきにいびきをか きはじめた やれやれ、とおもいながら、奥から毛布を 出し、客のビア樽みたいな体にかけてから、 のこっている二組の客に、おわびとして白 を一本ずつサービスしてから破片を掃き掃除 したのだった 深夜尿意に目覚めたその客は、自分がしで かしたサッシに残るいくつかのガラスの牙を みてあおくなり、平身低頭あやまった 男がいびきをかいているあいだに、アンド レはふたつの処置案のあいだで、考えていた ・破損弁償が欲しければ、警察をあいだには さむことが確実とはいえたが ・一見さんとはいえ、客を警察に突き出すこ とは、近隣の常連氏のあいだでどういう種類 のうわさになるかが予測できない 警察をはさまず、弁償を送るようにいくら 念を押したとしても それを誠実にまもってくれることは期待で きないだろう ええ、無罪放免でかえしちゃったの?? 常連さんの一人からは、それじゃあ万事、 なめられちゃうんじゃないと言われたが たとえ、警察をはさんだとしても、ここは 事実上ラテン気質の土地、 警察の力はたいして効果はない上に、その お客さんにちいさいとはいえ変な前科がつい ては、きのどくだったからである きのどく、というのは、もちろん商売上の 詭弁が多少は混ざっていたのであるが こういうのは、結局、市民の中の、政治的 な知恵である なんでもかんでも法律にすがるのは、日常 の中では愚策である アンドレは、昼食時の営業には、大盛りの 揚げ物の巨大な山をつくった、それは、北海 時代、北の味覚で覚えた味のメニューも、混 じっていた 夕方は、のびないように硬めに茹でたこれ も大盛りの、オリーブオイルにまみれたパス タの山を、厨房の中で用意していた 注文に応じて、それをオリーブオイルごと、 大鍋で炒めて暖めなおすのである そうすると、あらたな水分なしの加熱が結 晶化したアミロースがアモルファスになるこ とによって、ふたたび麺のなかに水分をいだ くことになるのである パスタにそえるアラカルトは、あらかじめ これも四種類大ぶりの量で用意しておいた このような、事実上のビュッフェの型をと っているのは、 アンドレが、ここを事実上ひとりだけで切 り盛りしているためである また、ここは事実上片田舎なので、客は味 覚を楽しむというより、食欲を労働のために 満たしに来るという傾向がつよかった 料理人の自己満足のためだけに、凝った料 理を作っても、あまり意味はなかった また、そのようなエンスーシアリズムでし かない、技巧主義そのものも、あんまりアン ドレは好きではなかった どちらかというと、栄養学の関心から調理 を始めたアンドレは、それを食べた客がどの ような労働をしているのかということに興味 をもっていた かれが、徒弟制度を嫌い、独学でメニュー を考えるようになったのも、そのあたりのこ とで、別に長い下積みを卑怯な若者独特の安 易なこころで忌避したわけではなかった また、徒弟制で、育成されると、悪い場合 は先輩のコピーであることに満足してしまう ことをおそれたからでもあった それでよしんば成功しても、それはあくま で大半が借り物であって、真に自分の工夫で かちえたものではなかったものだから、とア ンドレは考えたのである その分、失敗した場合は指導のもとにそだ った場合に比べて、重症の流血は、はなはだ 痛いものであったが それでも、アンドレは 青年とは自らの実 験のために生まれてくるのである、という先 生が引用した言葉を、気に入っていた 下積み、という意味では、気持ちの上では アンドレは調理の道以外では、つんでいた、 いえるかもしれない アンドレは、栄養、という意味では、食材 の旬、ということをことのほか重視した それは単なる味覚のことだけではなく栄養 もまた旬の食材はそれ時期の以外のものにつ いて、比べ物にならないほど豊かであること を知っていた 旬のマッカレルやサーディンは、実に理想 的な材料である 彼は、安くて大量に手に入り、なおかつ栄 養のある食材ということにこだわった そうなると、どうしても大衆料理に近くな り、多少は料理の経験には貢献できないのか もしれないが、すくなくともこの土地では、 それが需要と合致していた とうぜん、あまり、儲からない そのようなことを見越していたからこそ、 かれは充分な資金を用意して、この土地にき たのである 用意した少ない基盤メニュー以外にも、ア ンドレは客の要求にこたえるべくいくつかの メニューを増やしたいと、多少欲求不満をも ちながらも、厨房も給仕も事実上一人でこな しているため それは、事実上不可能だった 人を雇うと、それなりの給金も払わなけれ ばならず、最悪何時撤退するかもわからない 状況では、安心させて使ってやることも出来 ない そしてまた、やとうのであれば単なる給仕 嬢ではなく、業務的には自分と同格の仕事を させたいと、アンドレは考えていた、 そのほうが、最悪自分がここを撤退するこ とになったとしても、その彼や彼女が手に職 をもてるという意味で、人生が豊かになるで あろうし、 またこの土地も、どこかで味覚と栄養の利 益を得られるかもしれないと、アンドレは考 えていた すくなくとも、結果を急ぎすぎたり怠惰に 何もしない若者はかれは仕事の世界でも知り 合いになるつもりはなかった ナルシシズムが不毛に傾いてしまった少年 には、彼は哀しい記憶しか、もってはいなか った かれは、子牛や子羊をメニューにくわえな かった 飢饉の極限のとき、やむをえず共食いをし なければならない場合、社会の慣例ではこど もを残すからである しかし、経験をつんだ場合のおとなを残す 場合には、自然はこどもを殺そうとする どちらがひろい意味で賢明なのかは、アン ドレには、わからなかった たぶん、古来よりの、賢聖でも、明確にこ たえられるひとはいないだろう ただ、肉がやわらかいということだけで、 このんで幼体をほふることは、この職場のま えの職場でおおかったチョコレート色の肌の お客さん達なら、それは堕落だ、といってま ゆをひそめるであろうことはアンドレにはわ かっていた いのってから心がある動物を肉にすること がたとえ形式的にもせよ義務である社会のそ のもともとの理念にとって、 王侯料理に薫る社会と自然に対するエゴイ ズムとは、たぶん王朝を崩壊させる官僚主義 の力学に近い その意味では子牛の煮込みとは、ブルボン 王家の生首を煮込んだものになるのではない だろうか まずくてしかし栄養のあるものを食欲のそ そるものに変えるものが、料理人の腕だと、 アンドレはおもっていた できれば、のはなしだったが。 はずかしくて口にできない理想というもの は、もちろんくちをつぐんでいたほうがいい また理学は、うぬぼれることを禁じている ことをアンドレは夜学の先生から暗黙に学ん でいた。 ---------------------------------------- --故郷1-- 彼のあまり働かない父親は、彼を毎晩殴っ て暮らした アンドレは、十歳の頃、雪の降るそのパリ の郊外の町で父親に雪に生き埋めにされたこ とがあった 全裸に剥かれ、抵抗する弱々しい力を、大 人の力で押さえつけ 冷たく硬く固まった雪を、窪地に押さえつ けた、まだ幼い子供の背中に容赦なく投げ込 んだ 殴られるのを恐れる母親は、その父の背後 で、無表情に黙々と雪のかたまりを運び、あ るいはみづから子供の背中に雪を投げつけた 熱心におこなわなければ彼女もまたあとで 殴られるのだ アンドレはそのとき、死ぬべきだったのか もしれない 道端の雪のなかから、少年のまだやわらか い黒い髪がのぞいているのをいぶかしんだ通 行人により発見され、 救急に救出されたときは、体温が二十度ま でさがっていた アンドレは、緑色を帯びた光に光る治療室 の蛍光灯を、めざめた時に不思議な輝きとし て感じた 助かったけど、 …助かってない 両の、まぶたからなみだがこぼれた なおれば、またあの家に戻されるだろう かれは中学生になっても 学校が終わってからも、夜がふけるまで長 く図書館にこもり、できるだけ父と顔をあわ せないように心がけていた 予定をあらかじめ告げられ、その時間まで は家にいなければならない日時をのぞいて 殴られることには、からだの感覚が意外に はやく順応したので、それをおそろしいとお もう感覚ははやくに無くなった いつか殴り殺されるのなら、それならそれ でもいいとまで考えていた しかし、現実、一度折檻が始まると、それ はえんえんと明け方までつづくので、その次 の日は、学校に通うことができなくなってし まうので、 次の日学校に通うためには、親が寝静まっ てから玄関に鍵を差し込む必要があったので ある 親が不規則に家をあけるので、アンドレは 小学生のときから、自宅の鍵をもっていた 彼は満たされない愛情のかわりに、貪婪に 知識を吸収するようになった それは夢や希望というよりも、もっと切羽 詰ったむきだしの本能だった かれはじきにむりやり構築した、雑多な知 識のバラックに住むようになったが アンドレのスポンジのような知識欲にはや くに気づき、かわいがってくれた夜間高校の 理学の教官は彼に有機的な経験と知識をどの ように連結させ、循環するべきかという暗黙 知的なノウハウを授けていたことに、 アンドレは、卒業後しばらくたってから、 そのことをはじめて自覚した 家を引き払って、街のスラムに住むように なってから、彼は手の届く範囲で、それら本 で得た知識を実践するようになった その一方の極が、ここに繋がる、健康のた めの毎日の調理であった ---------------------------------------- --南仏2-- 「やあ」 作業用の、勤め先の黒い小さいバンをとめ、 トニが車の扉を音を立てて閉めた 自然と笑顔を返している、自分がそこにい た 「これみやげ、」 茶袋にはいったシチリアのレモンを渡すと 「俺は、くいもののよしあしなどわからない からな、このくらいしか無難なもんはおもい つかん、 今週は、どうするんだ」 トニは「物理的な」関係でつながっている 数少ないアンドレの友人だった ありがとう、 アンドレはレモンの香りを吸い込んでから こころのそこからの、感情の笑顔で言った 笑顔の、影にはつねに「殺生」のような何 かが、ある それを注ぐものにとって、愛情というもの が食欲の機能の複製であるのかはアンドレは よく知らなかったが、 それを覚悟のもとで、挑発をしさえすれば、 かみくだかれる最高の被虐をあじわうことが できた 性の欲望に限っては、アンドレは、夢想の 中で、はらわたを、ひきさかれることを、の ぞんだ。 「…俺を、めちゃめちゃにして…、」 内臓を引き裂いて、きみが望む血祭りに、 俺をささげてくれ、 となみだながらに卑猥な黒い乳首がささや かに垂れている肉付きのよい胸板にうるむひ とみでうったえた夜、 次の日の、あとを引くあしこし立たない満 足感は、午後の四時ごろまでつづいた。 おそらく、殺される小動物であった先祖の 遺伝子の回路が、断末魔に苦痛をやわらげる 強烈な中和のシャワーをつくったがために、 その子孫の、哺乳類の雌が、摂餌の縄張り や獰猛な捕食の機能を麻痺させてまで、 配偶子液 を注入されるその瞬間をうけいれさせられ るための、機能として、 その「死の回路」を、脳の機能のなかに、 変更の条項として、適用された。 それが、男性でも、発現しているのが同性 愛である 「そんな笑顔を返すからには、今ここで殺さ れてもかまわないな」といわれても、アンド レは高まっている発情の気分によっては、 うんいいよ、 と答え返してしまいかねない 同性愛者とは、その意味でかなしいかな少 女とおなじなのである そして、そのことに生命を掛けることに意 味を、いやそれ以外の詭弁を一切信用してい ないのが、男と女の緊密なハイブリッドであ る同性愛者の人生なのかもしれない 同性愛者とは、男が女のずるをチェックし 自らのなかにいる女が男のずるをチェックす るからこそ 市井のずるからは、もっとも遠いところに 立たなければならない それをおこなうのは、じつはいばらのみち であったが 彼らが許されている、二倍、四倍の快楽と は 彼らが自らの命を、あえて軽いものだと考 える、受け止めることを担保として支払われ る天の配給に過ぎない アンドレは、そのことをうずく毎夜の自ら のおおきな赤い一対の乳首の感覚で、まざま ざと、感じていた 彼女たちは? 三人くるよ、ひとりは新しい子 信用できるんだろうね その台詞には、アンドレはいつも軽い覚悟 を添えることにしているので、かれはその種 の、言葉を話すことにいつもよどみがないが、 そのことばが、慣習づいた形式としてたん なる儀式になったとき、たぶんアンドレの運 命は終わるのだ 油断した小鹿が、飛び出してきた虎に、い きたまま静かにやわらかい腹のうすい皮膚を、 やぶかれるように 大丈夫だよ トニがいった アンドレは想った 信頼するということは、信用しないことで あり、 信用していないことに、身をあずけること なのだと そのまま、一緒に地獄まで旅立つことがで きたならどんなにか幸福なのだろうに、と、 たまにわかりにくい苦さのほうへ選択を選ば なければならない日常の打算ののりしろのグ レーにあきあきしているアンドレは、それを 性欲への希求とおなじものとして、 感じていた。 かれは一面では日常を嫌悪していた それが絶対的に生活と生存には必要なもの であるにもかかわらず。 だからこそ、自己矛盾でもある疑似で安全 な(!)破滅である性やとときどきの荒淫に 身をまかせ、 その嵐がすぎさったあと、ほこりをいっさ い雨があらいながしてくれた、青空という日 常にもどってくるのであった 荒淫の記憶があざやかなうちでなら、日常 もまたねむけのいっさいない輝きにかがやい ているのである かれが日常を嫌悪するのは、それが緩慢な 殺人であるからであった 慢性的な慣れというものが、じぶんの感覚 にゆるい麻痺をかけて精神と血液の循環がわ るくなるという意味だけではない 進取の気性に富んだ前向きな日常もまた、 みづからの結果としての健康とはまたべつに、 小分けさせられた緩慢な殺人なのである 前向きということは、どこかで潜在的にだ れかを踏みつけている 同輩を押しのけてわれさきへと川のほとり で水を求める それがわからないのは事柄の空間的時間的 な構造性を把握できないあまやかされた小娘 なのだろう ユークリッドが、王や戦士にこそ幾何学は 必要だとかんがえていたらしいことはそうい うことだったかもしれない 布陣には地図が、予算と治世には力学が必 要である 幾何学は、ポーランドに貨物列車が定期的 にはしる時代の前後に、複素数をふくんだ時 空体の理論となったが、それは二十世紀の日 常とは乖離したものとなった かれの強さとは、孤独のつよさであり、考 えてゆく力であった、その理学の力が、絶体 絶命の淵で、自動的に立ち上がり、論理を組 み立て、決定をする しかし、その同じ機能が、なかば自動的に、 よわよわしい知人をつぎつぎときりすててき たのだ 「前に進む」、ということは結果的に助け ないことであった それを裏切りと呼び、非難の感情を満たし たものは多かったし、 阻害や暴力の危険も、またときどきあった 多分、アンドレは知能が高いのであった 古来、魔物ははなすじが通った、美しいか んばせを持っているものだと相場が決まって いる ある意味、アンドレは幸運だったのかもし れない 虐待を受けたために、 論理を自分の恣意の道具とするのではなく、 自分の人生を、論理のしもべに置いくことを 学んだ 生きるためには、 次に何をなすべきかということを それは殴られつづけてぼんやり彼岸を近く 感じていた少年の成仏への純粋な願いが、そ のようなかたちの純粋さとして、かれのなか に結晶したからなのであった かれはギャンブルや高利貸しのような観念 が嫌いだった ひとにものを教えることには、それが無駄 になることがわかっていてもそれを損と考え ることはしなかった むしろ、自分の繊細な配線からなる複合し た工夫の群れからなる工夫をうまく伝えるこ とができないことをうすくかなしんでいた それはもともと、うらまれないためには何 をすべきか、という処世のずるからはじまっ た恣意であったが、 自分が実は古典や先輩から不定形のものを 受け継いでいることに思い至り、 自分が自分と同じ一、あるいはできればn といった量をつたえたい、といったいわば、 「精神の生殖」を願っている自分に、時々気 づくことが多くなっていった このような彼にとって、実は女性はなまな ましすぎる存在だった 実力としての鉄骨も石油も、体内にはない むしろ、そのなめらかなからだに詰まって いるものは、際限のない蝿の卵の大量に、お もえた かわいそうな、アンドレ…。 アンドレはときどき静かに尊敬されていた が、 その意味で彼はそのことをよろこんではい なかった それは謙虚のようなものではなかった アンドレはたぶん、論理の子なのである かれが知人のもとをはなれるときは、その 知人が人間的な弱さに、永遠に膝を折ったと きである 訓練ができていない普通の人は、一度の失 敗が大抵人生の永遠の失敗になる そしてそれをかれが救うことは大抵の場合 できなかった よわさというものは複利に増殖し、うそを かさねるうそは次々とその面積を増大させる まだ寒い気候の中で、春を信じ、冬物のコ ートをぬぎすてるように過去や失敗をリセッ トできる強さは、普通の人にはできなかった 三寒四温の中の、寒の戻りに風邪をこじら せ死ぬことをおそれるがゆえに 彼は想っていた それは精神の中の鉄分がすくないからだと そして精神の鉄分を補うために必要な精神の 食材の知識が少ないからだと 生きるための栄養は、実存主義の書物のな かにではなくうみたての卵のなかにこそ含ま れているのである 小さな知識と努力の積み重ねは、たぶん資 質と関係なく虐待や敗戦をくぐったものにし か許されてはいないのかもしれない かれは、自らが彼を切り捨てることでトニ を失ないたくはなかった 強さとは、さみしすぎる そして、あたまのおくそこにある、 生理学的にも、神経塊の肯定回路を快楽の 絶叫の中で、リセットできる関係は、 たぶん、ここでは、トニとのほかには、も はやかんがえられなかった どんなにかれの人生観が甘いと遠くからの 批評ができるとはいえ、 まどろんだそのかれの体温と、嘘や虚飾の 混じらないその枕談義に、 アンドレは、たぶん女として、人としての、 信頼をよせていた アンドレのような「実力のある、女」にと っては、相手の力量など、どうでもよかった わかれがありうるかもしれない、というも のは、ものごとの常だったが、それでもでき るだけ、であいという最初からはじまり、で きるだけとおくまでおたがいを育てあげてい く関係を、アンドレは乾いた希望として、の ぞんでいた 信じることのもとでともにあゆんで、もし、 どうしようもなくおいつめられたときは、 おたがいにわらいながら介錯しあう、トル コのスプーン軍団の愛に、性別をこえた賛辞 を、アンドレはもっていた 勇猛さ、というものは誠実さ、ということ に似る。じぶんを立場からの機能とみなせば、 人生はよくもわるくもわかりやすくなる おそらく、情の愛をそれで解釈しなおせば、 深い情には取替えはない その意味で、戦士に近い緊張のもとで生き ている人にとっては、たとえば離婚よりも、 心中のほうが誠実なのかもしれない そもそも、なさけないひとは恋人としんじ ていた人から心中にさえ、さそってもらえな い …それが、「インディゴ」と、できていれ ば、よかった、のだ、ろうか すくなくとも彼は愛に飢えていた * 今週は大丈夫だよ アンドレは答えた そして周囲にだれもいないのをたしかめて から、トニの背中に腕を巻き、すがりついた ---------------------------------------- --南仏3-- 百合科の野菜はじつは乾燥地域で発達した 植物なのである おなじなかまには、当時の証券投機をひき おこしたトルコ産のチューリップもあった 発芽のために必要な水分を、あてにできな い周囲にもとめず、じぶんの鱗茎のなかにた め、なおかつ発芽のための養分をもたくわえ ておくと、 飢えてのどのかわいた動物にひっこぬかれ る。 植物の当事者は、それをさけたいがために、 じつは猛毒にちかい刺激物質を体内につくり ためこむようになったのだ それはいまだに昆虫には有効だが、植物に とってはとっては残念なことに、大抵の草食 性の動物はそれらを解毒する強力な肝臓を進 化によって獲得した いまでも、肉食獣は百合科が不得手である 伝説の伯爵の一族よけというものはあくまで 伝承で、その実それは狼よけであったかもし れない それらは熱に弱いので、加熱すると揮発し 分解する のこるものは、あまい糖分とねばりのある 多糖の、おおくは灰分のにがいうまみのある、 あまいスープである ただ、たまねぎは便利だが、煮物に使うと きには液に甘味がくわわることが唯一の欠点 かもしれない 甘味なしにスープに粘りを出したい場合に は無塩乳脂と小麦粉を練って使うのが普通だ が、アンドレはくだいた米穀をすりつぶした 粥としてまぜこむのを好んだ 欧州ではあまり米をたべない 欧州側ではあまり米にむいた地域がないか らだ。おそらく、南欧料理で米の煮込みを出 すのは、カスピ海沿岸の文化が馬か船でやっ てきたからなのであろう 野菜や海産物はたいてい、調味料の強い味 付けを嫌う それ自体が個性のある旨みをもともともっ ているからだった それらの調理は、どちらかというと香り付 けを主体として行われることが多かった 最後の老夫婦を、笑顔で見送ったあと、 アンドレはふと、あのひとたちがもし隣人 だったなら僕は友達になれたろうか、と一抹 の寂しさを感じながら戸を閉めて、ブライン ドを下ろした 商売という生存は、努力という挑戦と戦略 のむこうにある 客とはある意味、敵であり、友人ではない 八時半を過ぎた頃、電話が鳴った ああ、僕… お客さん今かえったよ、じゃ、いつもどお り トニからだった ---------------------------------------- --南仏4-- 少女は三人だと聞いていたので、トニの分 をいれて五人分の食事をアンドレは仕込みの 時点で、一般の客の分とはわけて用意してい た トニはアンドレ同様二人前食べるからだ ワインは魚と野菜がおおい料理にあわせて 二年ものの黄色くはないわかい白を三本氷の バケツに突っ込んだ 香草で色と香りをつけた汁物はさめないよ うに大鍋でテーブルの中央におき、 白身魚のやきものは弱火でなかまで火をと おしたあと、さめても歯ごたえがうしなわれ ないように、短時間の強火で表面をかたくや きあげた ぼろぼろに繊維がくだけた牛の塩漬け肉で チーズとほうれんそうとトマトと旬のあおい 野菜をもりつけたサラダに、クリームとビネ ガーでといたすこしの卵黄と、そしてたっぷ りのオリーブ油をくわえて懸濁させた化粧油 を特大の広口の給仕びんでおき、 パスタは例によって硬めに茹でたものを これもさめないように大鍋の給仕でやまにし た。かれらが到着するころには、余熱が芯ま でやわらかくしていることだろう ピッツァは時間がないので焼かなかったが、 パスタのソースは二種、 くず肉をトマトと香草と茄子と唐辛子であ まからくブイヨンでしあげたものと、 肉のうまみと野菜の上品なえぐみに、若干 の魚醤でかくしあじをしのばせたソースに生 クリームと小麦粉であんをひき(ソースにプ ディングのような硬さを出したい場合は、蛋 白質のすくない米穀よりも強力粉の小麦にた よるしかない)、擦った白ごまをまぜあえて こくをだした白いものとの、 ふたつを用意した 手間と時間がかかる上に、まだ自信はない ので一般のお客さんにはだしていなかったが、 山盛りのしかし、奇妙な形もあるパンをも、 かごいっぱいにテーブルに載せた。 トニには、合鍵を渡してあるので、アンド レはシャワーを浴びることにした 彼らは、友人なので、代金は取らない * 岩の上のアンドレの食堂は日曜の夜は七時 半で営業を終える 月曜は休業だった 日曜の夜、そのうち、不定期に彼は友人を 呼ぶ からだの泡を洗い流し、みずいろのセミビ キニの下着をはき、ズボンに脚をくぐらせた ところで、 おもてのドアが開く響きがした 若者らしさを強調するようなすこしすっき りとしたオリーブ色のパンタロンと、 しろい長袖のシャツを着た アンドレはナルシストっだったが、 そこには 性のあいてを満足させる自分を愛してると いう、まわりくどい女性的な自己実現があっ たのかもしれない この家に、特別な意味での男性がくるとき のこの瞬間は、いつも胸が高鳴るのがアンド レにはわかった ---------------------------------------- --南仏5-- この家は、厨房と店舗、そして居間と寝室 がややふとい廊下で仕切られていた 居間と店舗が南の海岸に開き、 厨房は廊下に沿ってあった 黄色で統一された店舗は西と南におおきな 解放できるテラス窓だけがあって壁はなかっ た あまり資金はなかったので、テラスは土盛 りの上にモルタルを塗ったコンクリート敷き だった そのコンクリートのテラスは、粗末な石の 階段をともなって、いまは夜の闇の砂浜へと つづいている 外に出れば磯の香りがただよっていること にだれもが気が付くだろう 磯の香りは、海藻が分泌する硫化有機物だ った 無粋かもしれないが、このような性やムー ディでない硬いブロックのような要素が、ア ンドレの反面だった そうでなければ、いまごろサンジェルマン 通りあたりでで麻薬漬けになっていることだ ろう 居間から一段さがった基礎のところに、水 色の防水ペンキで丁寧に塗られたコンクリー トのいけすがあって、その横に本体とおなじ くらいの濾槽が浜の砂を抱えていた アンドレは個人的には、水色や海の色が好 きだった それは父親が酒乱になるはるか以前、両親 と海へと旅行したはるかな昔のなつかしい記 憶の色だったからだ 給水と排水の耐熱耐紫外線加工の丈夫な黒 い細身のプラスチックドレネージが、海の方 角へと蛇のようにうねりながら、すでに魔物 の領域となった夜の闇のなかに飲み込まれて 続いている 太い廊下で仕切られた居住区は、南側がそ の居間がその太陽の光を取り入れるためにお おきなまたテラス窓を持ち北東の方角が浴室 だった 浴室の南側をかつて勝手口に通ずる細い通 路だった部屋をはさみ、 そこがアンドレの寝室だった 前の居住者はこの区画で自殺をしていた リビングで湯がいたじゃがいもだけをつま みながら、白を飲んでいたアンドレのもとに、 トニがやってきた 行為のまえには大食できないことを、アン ドレはまえの恋人におそわっていた 用はたしたかい?「お客さん」のまえじゃ 洗面にたてないんだよ ああ、わかってるよ うまい飯を大量にいれれば、どんつきです ぐにでるってもんだ、便所の紙、変えたんだ な アンドレは、内心ムードもなにも、あった もんじゃないなと笑いながら、この牡牛のそ んな粗野な部分がじぶんのえぐられるような 愉しみに合っているので、そういう個性をも じぶんのそのたのしみでおおいかくし、のみ こもうとしていた 彼女たちは? いまワインを飲んでるよ ちょっと足りな かったんで勝手に赤二本あけたんだけどいい だろ? えー と僕は笑った よく飲むねえ、じゃおごりは一本だけだ 赤一本分は、きみが払えよ おまえんちの酒は、たかいからなあ トニはわらって、僕の両頬をやさしくはさ み、顔をちかずけてきた まごうかたなき男性の唇が僕の唇を包み込 んだ のばっしっぱなしのかれの栗色のやわらか い頬ひげがここちよかった トニの瞳には、強い芯がある だからだらしないひげも似合うのだろう トニはリビングの時計を見た もういいだろう ふたりで、居間を出、トニが店舗のほうの のぞき窓を廊下側からのぞいた あいつら、電気をけしていかなかったな 僕ものぞいたが、ブラインドがおりている おおきな窓のある店内には透明な電球の複数 から光垂れるこうこうとした熱温度の低いあ たたかい光の店内がみえるだけで、そこには だれにもいなかった 一方、勝手口に至る廊下だったへやの、ド アノブには、在室をしめす発光半導体の、窒 化希土類の緑色の綺麗な単色光が、 僕の心に、するどい性欲としてつき刺さっ てしまった ひとしれず、僕は、淫乱の溜息を吐いた 電気を消すか?電灯だろ ワットたかいぜ いい… …はじめようよ、彼女たちがまってる ---------------------------------------- --南仏6-- かれはここから二十キロほどはなれた小都 市で、電気工事士の仕事をしている ここの改築のとき、その細かい注文の配線 の工事に、親方に連れられた二人の下っ端の ひとりだった そのときは、二、三の挨拶と図面との打ち 合わせの会話だけだった 記憶に残るような強い印象はまったくもち えない、普通の若者だった シャツ越しにうかがいしることのできる、 ふたつの背筋のうねがゆるやかにひろくもり あがった、いい、背中だな、とちょっとは淡 くおもってはいたが べつにアンドレも世間のホモセクシャルが そうであるようにいつも発情しているわけで はなかった ここでの生活が一段落して、ぼつぼつ売上 が軌道に乗り出したとき、勉強をかねてその 町にご飯に行ったとき、 なにかみしったかおがいるなあ とマティーニを干しつつ、酔ったひとみで ぼんやりながめていたら、 めが、あってしまった そのつぎのひの朝、その田舎町のやすやど で飛び起きたとき、自分は全裸で、そしてと なりのかれのたくましいからだも全裸だった 黄色いシーツからはだけた、かれの腹筋か らのぞく上半身では、なまなましいおおきな 一対の鶏の胸肉に、実に露悪的にふたつの黒 いおおきな乳輪がついているのに、どきり、 とした …買い出しに間に合わない! 黄色いシーツを蹴り上げて、セミビキニの パンツをあわてて腰まではきあげてぱちんと ゴムのおとをたてると、 ベッドの彼がねむそうに、なんだ、今日日 曜だろ と眠そうに腕でめをこすりながら、うめい た ああ、あ、 (この商売は、信用が第一なのに……) あわてて、ホテルの時計の黒ぶちの時計を ながめると、朝の八時を五分ほどすぎたとこ ろだった 僕は、頭をかきむしりへなへなとそこにす わりこんだ (こいつの脚って、細くて長くて、少年みた いで、とてもきれいだな) トニはそのとき、太い腕で頬杖えをつきな がら、僕の心中を察しもせず、にやにやと勝 手なことを考えていた 今日は休みなよ、一日ぐらい仮病でやすん だからって、人生変わらないぜ、お嬢ちゃん だ、だ、だれが、おじょうちゃんだっ 取り乱して、細い腰で仁王立ちになる、僕 を見て、 だれも建築現場で鉄骨をかついでいたなん て想像だにできないだろう おまえって、肉のつかない体質なんだな あとでそのことをきいて、トニはめをまる くした …その日は、あきらめてトニのいうとおり 降参した がっかりして、うなだれて、手招きされて、 彼の腕にふたたびいだかれたとき、薄い胸 毛と胸板のむこうにあるつよい鼓動に最初は おどろいたが 次第に安心感に自分が溶けていくのがわか った その日の午後は、重いやさしさの暴力に のべ二回のセットで、のしかかられた 身もこころも満足して、ふらふらになりな がら彼に手を取られながら、階段を降りてい った 仕事休ませちゃったんだから、おれが払う よ 恰幅のよい白い綿の太目のドレスをきた南 仏独特のおばちゃんが、 おたのしみだったかい、 とにこにこわらいながら、トニが払う会計 を受け付けていた 気にすることなんかないよぉこのあたりじ ゃ、めずらしくないからねえ そちらさん、かわいいお嬢さんだねえ、 ああ、シーツはちゃんと洗濯しておくからね え、気にしなくていいよお からかわれて僕は耳まで真っ赤になった オレンジ色のワーゲンにおしこまれて、車 が走り出しても、僕は両のこぶしを膝の上で にぎりしめてぷるぷるとふるえていた なんだ、まだおこってんのか (…そうじゃない) こいつときのうであってから、すべてがく るいっぱなしだ まるでギャグ・カツーン見たいじゃないか こんな、明るい人生など知らない 陰鬱な雪の降る、町全体がある種の覚悟を ひしひしと、雪の空に見上げる北フランスの 寒い冬だけが自分だったはずじゃないか ゴッホやゴーギャンは正しかったのか、あ るいはまちがっていたのか 僕にはわからない …「インディゴ」、ごめん。 ---------------------------------------- --南仏7-- 午後四時前に、本日休業のプレートをだし :定休日は月曜日だった、その横に、店主急 病のため、と張り紙を出した 事情のため、とかくと客の憶測が勝手には しる危険があるからだ 配慮のしすぎだといわれそうだが、これが 自分なんだ トニはその横でばつの悪そうな落ち着かな い態度でそれをながめていた 何か食べるか? 仕込んだ残りのメニューしかないけど 白身魚を粉をまぶして崩れないようにさっ とムニエルにし、:フライやくず肉ステーキ と同様崩れないようにするためには、粉やパ ン粉が有効だ:ハーブの粉をまぶしたパスタ と、 白ワインを、いけね、車だっけ ええと、ジンジャーエール、 カナダ人が作ったアルコールのない偽物シ ャンパンであるジンジャーエール、をあけて、 ふたつのコップに注いだ 気取る必要がなければグラスでなくてコッ プで十分なんだ 休業中に店舗を使うわけにはいかないので、 ブラインドを閉めた居間で、ふたりで食べ た うまいうまいと目の前の牡牛は、たちまち たいらげ、おかわりをねだった イカの身でまた軽めのスパゲティにし、こ んどは大皿に山盛りでもってきた イタリアンと中華料理には共通点が多いこ とに建築の仕事をやめて安く長い旅行をして いたころにアンドレは気が付いていた 火力の強い炉を使って、手早く作れて大味 ではずれがない 大衆料理過ぎて、料理じゃないという人も いたがそんな人はなんでも本格的にやれば何 の道でも奥は深いのを知らないのだろう 証券会社の華僑の青年とロンドンでしばら く遊んだときに、 その考えは、日本の漆で補強されることと なった 彼は努力家でインテリだった 送り出してくれた親に何かにつけ贈り物を している姿にほほえましさと、同時に伝統の 恐ろしさと息苦しさを感じたが(東洋にもプ ロテスタントのような自己自律のような思想 の伝統があることを、そのときになるまでア ンドレは知らなかった)、エキセントリック な人間と寝ることは 時には博打以上の収穫があった 当時のアンドレにとって、男との交歓は、 すでに愛ではなく会話だった 男性同士が、男女の関係と、本質的にちが うからこそ逆に男色とは、すばらしいのだと いう指摘はごく素朴にそれは真実なのだと、 アンドレは想っていた 男性同士に、制度など必要はない みとめてもらわなければ生きていけない人 間が、からだというもっとも濃密な言語で自 分を表現できるものか 女性がよい彼氏がなかなか見つからないと 嘆くのと全くおなじ理由で 男色の男性もこいつとなら寝てもよいと想 う彼氏はなかなかみつからないのである そうでない男色は、相手を麻薬としか想っ ていない じぶんを努力して濃くしない限り、一定量 の麻薬は、次第にからだが慣れてくる 麻薬を少年愛で行うと、快楽の深さを求め て、行為がどんどん深くなり、最後は生きた ままきりきざんだりをするのだ 愛は、恋人同士が時間の間隔や体力の均衡 がなければ、つまり中庸の感覚がなければ非 常に危険である 少女や少年を愛するものは、人格者である 必要があるし、また人格が破綻したものはす べての愛を語る、資格がない 貞淑がない愛は、両色とも、愚かである 彼は世界の産業革命は、中国で石炭を使い 始めたことから始まると折にふれて力説した 海老と貝柱のトマトソースの出汁の出前を、 たがいの体に塗りつけてふざけながら、中国 への憧れが貧乏人のくだらないニシン舟に、 新大陸を発見させたのだと力説をしていた 自分が利ざやに汲々としている商売をして いるくせに、スペインの南米の銀を、旧世界 に対するインサイダー取引だ、ヨーロッパ人 はアジア人に対しておおきな貸しがあるのだ、 と笑い転げながら僕を犯した かれの持ち物は、細身だが、とても長くて、 とても、よかったのだ 別れ際に、それこそスーツを着た、アジア ン・スマートそのものの秀才と、僕は熱い抱 擁をし、硬い握手をして、別れた もうあうことはないだろうけれど、頑張っ てくれ、と そんなようなことを、たとえばこの男に、 ひとつの思い出として語る日も、そう遠くな いような気がした ひとつまえの、つらい別れをもあの東洋人 との経験のように、さばさばしたしかし、肯 定的なあそびだったのなら、こんなにも、つ らくなかったのに。 いま、世間話をもとめられたとしたら、ア ンドレは自分の遍歴を、彼、華僑の青年まで しか、語る、自信がなかった アンドレは内心、こいつはいずれ店の常連 になるなあ とおもっていた つまり、一度寝てしまって、そして、から だの相性も、性格もそんなに悪くは無いとす れば、 「僕」は、またふたたび、くりかえして、 こいつと寝るだろう。 つまり、僕はこの土地で、この土地の夫と、 出会ってしまったことになるのだ おたがいに、そんなに嫌いではない同士が、 性の快楽の共有をくりかえし、服を脱ぎ、か らだをかさね、 また生活や日常の領域がおおくかさなりあ うことによる、 人生観が漸近線をたどりながら近づいてい く現象を、 夫婦や恋人と、よばずになんというのだ ---------------------------------------- --南仏8-- 最初、パブで目が合ったとき、俺のことを 女の子だとおもったそうだ あれー、こんな子知り合いにいたっけなと 酔ったあたまで想ったそうだ 僕のほうは、背筋の姿で、いつぞやの電気 工だとはすぐにはわかった あとで、ここの工事にも何回か着たのでこ のパブにもときどき遊びには来てはいるのだ という ちいさな地方都市の、まるで盆踊りカーニ バルのようなちいさなウォッカ割りをだすパ ブは、下品で猥雑な田舎臭い笑い声があふれ ていた 酔って上機嫌の彼に抱えられるようにその 店からその身を持ち出され、 衣類をむしられてちぎってはなげちぎって はなげされながら 僕は期待にわななき、笑みがとまらなかっ た 行為の津波がぼくの全身をはげしく洗い流 していたとき、かれは内心、あれ?あれ?と おもっていたそうだ あれえ、乳房がないなあ どんだけ酔ってたんだよ 僕はふきだした 僕が、かつて工事を頼んだここの店主であ ることを朝のやわらかい日差しのもと、 寝息を立ている僕の寝顔をぼんやりながめ ていて、 それを意識で確認した瞬間 一瞬心臓がとまるかとおもったそうだ 僕たちはげらげらと寝室のシーツの上で笑 いころげた おまえは、プロだったんだよな うーん、 あんなにたのしかったという記憶に、はた してプロ意識などあっただろうか いや、ほかの子がそうじゃなかった、とい うことなら、あるいは。 まえむき、ということは、そこに遮断を発 動させる。 ふと、インディゴも、僕と同じだったのだ な、と気がついた 他の子が死んでいくのを助けられなかった のではない 助けなかったのだ ---------------------------------------- --北海1-- アンドレは南の建築の仕事をやめた しかしせっせとためた資金はまだもうすこ し足りなかった すくなくとも、千五百万、できれば自分の 未経験が二、三の失敗を繰り返すことを想定 して二千万はいるだろう、とおもっていた 担保も信用もない若造に、そんな融資をす る話などありはしないだろうから、アンドレ はもともと借金で実験をしてみようとは想わ なかった 逆境と実はつめたい笑顔の向こうを知って いる彼、 また実験室の理学的な試行錯誤が、実は三 倍五倍の準備と試行錯誤をへなければ、結果 を出せないことを知っている彼は 自分の力をそこまで信用してはいなかった ともかく、アンドレは考えるためにも、脚 を北に向けた 半分は、日々の激しい緊張からの積極的な 息抜きだった アンドレは、つねに精神的に普通の人の四 倍疲れるので、休息や補給も普通の人の四倍 必要だった アンドレの大食い、は現場では有名だった 彼は、現場ではかならず、シャワーを先に して夕食を後にした おもいっきり食べると、色気も糞もないか らである 精神の疲労は、ルーチンのときほぐしとい う意味では積極的に新しい経験を必要とする それも、履行達成のための義務感の緊張を 伴わない種類の その意味で、旅行者としてゆっくり無責任 に旅行することや、たとえばロンドンで中国 人の青年の下宿に長逗留して、無責任な歴史 の話をすることは アンドレにとって、とても羽を伸ばせるよ うな 鶏がのんびり砂浴びをするような、「遊び」 だった そんな遊びの長い時間のなか、紫色の北ヨ ーロッパの夕暮れの夕食の町で、 不覚にも三軒はしごして、ぐでんぐでんに なってしまた 営業のビジネスマンが使うような素泊まり の個室のホテルにころがりこんで、ゆっくり シャワーを浴びてうすよごれた廊下をガウン であるいていたとき、 そっと右肩をうしろから、つかまれた 緊張がはしるのがわかった …いくらだ? おとこの野太い声が、耳元でささいやた そうだろう、こんなところで平日のよる、 はたち前後の細い若い男が、半裸で安宿にと まっていては うしろからガウンにそっと右手を差し入れ られた …ちがいます こういう「取引」では、符丁がもっとも大 事だ 手がそっと抜かれ、わるかった、という声 のあと、ひたひたとスリッパの音が遠ざかっ ていった 部屋に戻り、次第に興奮してくる感覚に、 激しい自慰を二回おこなったあと、 アンドレは、ぼんやり天井を眺めていた …からだは、売れるんだ 小学生の頃の、おとなの男のたばこくさい 吐息を、おもいだす …どうしよう 気持ちがそっちにかたむき、すこしずつ流 れ出すのがわかる 深夜に、都合三回はなってから、アンドレ はまんじりともせずやはり紅色の夜明けが来 るのを待った ひくく重い雲の向こうに、その色がにじみ はじめるころ、アンドレの気持ちはかたまり つつあった まともな、仕事じゃないな… それは、わかっていた それでも、金が要る それも、高額の …どうして、僕はいつもこう極端なほうか ら、ものを考えてしまうのだろう ---------------------------------------- --鉄骨1-- 卒業で、夜学を辞したあと、 アンドレが得た結論は陳腐なもののように 当時の本人にとっても思えた 金が、必要だ 学者や作家になるのであれば、またその本 能的な誘惑もなくはなかったが、アンドレは 現実的に謙虚だったのかもしれない 二十世紀の後半の現実、研究や発見という ものは数学から生理学にいたるまで、歴史の おおきなうねりが逆に研究者の名前を栄光に 乱雑に選び取るもので、 学者になるということは、運命の女神のお そろしい奴隷になることを意味する アンドレは必死の悲しみの中で、女や女神 のなかにある、狡猾な打算をかぎ分ける能力 に異常な発達を見せていたのかもしれない 職業の、奴隷 おそろしいことだ 知的好奇心を追いかける職業であるはずの 作家は、大衆がアヘン窟にこもって鍵をかけ る時代の場合、登場人物の名前とカートリッ ジ的に交換可能なわかりやすい出来事をブレ ンドし、カクテルとする自動乱数発生装置と してのバーテンダーでしかなくなる バーテンダーであるのならば、 アンドレは考えた 料理人であるほうが、そこに生理学とそれ とから得られる、 健康への希求をこめられるだろうと タナトスという概念は、自然科学のなかに はない 熱力学の第二法則に、人格はない 建設を履行する義務があることを強制する 自然法則はないが、 少なくとも、滅びを歌い上げることはアン ドレにとって甘えにしか見えなかった 彼は、毎回のマゾヒズムの灰の中から立ち 上がりはばたくフェニックスでありたいとね がっているのかもしれない 人の人生には、戦争で爆撃を受けるという 経験が財産になるということは 戦争を起こしてしまう子供と、戦争から不 死鳥の財産を引き出す孫がいる限り 戦争が人間の歴史に永遠になくならないこ とを示しているのかもしれない どんなに堅牢な社会制度や、機械通信を発 達させても ひびのはいらない構造体は、神話のなかに も宇宙の中にも、存在しない 自分を成長させることに必死なアンドレは 自覚していなかったが、彼は聡明という孤独 の不幸のなかにいたため、 普通の人にとっては、揺りかごとしてのレ ールである徒弟制度に参加することをよしと しなかった 未知の中で格闘しなければ、新しいものは 得られないのだということを 自分の尻のなかでうごめく、自分を買いに 来るせまい世界の、「ふつうのおじさん」と の平凡な会話を毎回の夜聞かされるたびに、 アンドレはつまらないおとなと、彼らが作 ったよどんだ世界のどうしようもない視界の せまさにあきあきしていた 徒弟制度に参加しない以上、 最初の拠点は資金で作らなければならない しかし、若者にとって大金はどこにあるの か、それはかれの人生の最初にあって未知で あった 実際の社会の経験上、無能で無知であるこ とが自分であることを知り抜いているアンド レには、融資という概念はなかった すでに証券会社が、リテール爆弾という馬 券カジノをばら撒き始めていたのをときどき 一般の新聞で見て知っていたから、人生でも あるおおげさに言えば自分の事業を、かれら 金融にけがされたくはなかった 彼らにとって、土地や店舗は、あくまで転 売可能なものだけが価値があるのである 皮肉なことに、賃貸のための建築や転売の ための解体は、もとをたどればギャンブルで もある証券が、発注するのだ 結論はまた、陳腐なものだった 先生がみたら、観念ではともかく、現実に は認めたがらないだろうな、とおもいつつ、 かれは作業着を着て、足場に登った 建築現場というものは、意外に腕力は必要 ないものである 超高層ビルの部材を、バベルの塔ではある まいし、すべて人力でスロープを引いていく わけではないことは、ちょっと指摘すれば、 だれでもわかるだろう 鉄骨は、重機によって、石油の力で引き上 げられるのである 現場では、段取りの順番と、適切な時期に 接合の部品を用意することができる、繊細な 注意力こそがもっとも求められていた それと、唸りを上げている石油獣にまきこ まれないための、注意力も アンドレは、重宝されたが、同時に危険も 感じていた その危険は、起源的にはただ一種であると もいえた 来るもの拒まずで、なおかつ給金がよくて 危険、ということは、働いている人間の種類 もかなり調整されてしまうものだった 注意力散漫なもの、快楽に弱いもの、すぐ ながされるもの、アンドレは、ここは動物園 なんだな、あきらめの伴うやさしさで現場に 立たざるを得なかった おおむねのものは、よい稼ぎを直ぐ使って しまうのでこのような繰り返しの現場に立た ざるを得なかった アンドレのように、ためるためにここに来 る人間はほとんどいなかった 強いて言えば返済のためにくる青白い人工 :にんくも、いることはいるが かれらは、おしなべて陰気で、何が栄養の あるものかほとんど知らないので そのみじめなめそめそめいた態度は、いつ もいじめられて結果的に現場をたたき出され るのだった またそのような人間どもがばらまく工賃で、 下世話な下町がにぎわっていることは、ある 意味経済がほほえましいことにもなるので、 人間の笑顔が好きなアンドレにとっては、 あながち忌み嫌うことでもなかった 彼は、可愛がられていたのだろう ただ、「悪趣味」というものは同好の人間 には嗅ぎ付けられるもののようで、 アンドレが「経験」のある若者であること をみぬいた鳶の四十男に、つきまとわられる ことになった 別に、恥ずべきことであるとは想わなかっ たが、それでもおおっぴらに公言するべきこ とでもなかったのでそのような話題は極力ア ンドレは、さけていた 現場は良くも悪くも、ながされやすいその ひぐらしの者が多かったので、 かれが「器」でもあることが表ざたになれ ば、彼は「名器」としても可愛がられてしま う危険があった 快楽は嫌いではないが、アンドレはここに 普通の意味で仕事にきていた そのことを充分に説明した後、くちどめを かねてアンドレは服のボタンをはずしていっ た 簡易宿泊所の硬いベッドのうえで、腰の下 によだれで汚れた硬い枕を置き、尻だけを裸 にしてはらばいになった 男がのしかかって来、実はひさしぶりの満 足に、アンドレはおもわず身を震わせてしま った けっして愛してはいない、深いくちづけを おたがいの口から酸素をむさぼる様に、十数 分もの長い時間、交わしたあと、 服を着て、しずかに扉を閉めた なにかできることがあれば、ちからになる から 深緑色の作業着のせなかを見送りながら、 これが、自分なんだとアンドレは、否定と肯 定の入り混じった気持ちで晴れた街の風景を ながめていた ---------------------------------------- --鉄骨2-- アンドレはH鋼の穴に、安全綱の金具を止 め、右手であつい鋼の鉄板を手袋で握り、風 景をながめていた ジックラトだ… 眼下は百仏尺はあるだろう。 車の移動するのはわかるが、ひとのすがた は努力してみないと空気のかすみにかすんで しまって確認するのがむずかしかった ビルディングの建設とは、鉄骨を組んで、 青空から三次元をぬすむのである アンドレは鳶の仕事ではなかった もちろんそちらのほうが金はいいが、かれ もいのちは惜しかった だがしかし、この仕事に誇りをかけている のならば、すてるものがなければ鳶のほうが いいだろう。 のちに、アンドレは新鮮なたまごとまちが えて孵卵のたまごを巣からとってきてしまい、 まだ意識のないはずのぎょろりとしたひとみ にフライパンのなかからにらまれておどろい たことがあった 生命のからだの建設は、たとえ遅滞があっ てもおたがいが協調しておくれるので、でき あがるからだにバランスのくずれた奇形がで きることはふつうはないが、 建築では納期工期というものがあり、それ がしばしば余裕のないものであるがゆえに 鉄骨後の施工はつねに予定との戦いであっ た。行程が遅れると、つぎの行程が遅れるこ とになり、腕や段取りの悪い隊は現場では嫌 われる いさかいのもととなったり、工期を早める ために手抜きをしたり。 天空に立つ鉄骨鳶は、命さえささげる覚悟 があれば、そのような一種女仕事のような人 間のみにくさをときどきみなければならない 下行程の煩わしさを感じないでも、済む。 現場は、金はいいが、ながれものの烏合の 衆であり、協調が大事ではあることはわかっ ていても気配りや連絡のような配慮が苦手な 者がおおいようであった 午後の太陽が黄色くなりはじめると、みな パブのことを考え始めるのである。 高層ビルは徹底した軽量化のため、部材は 規格化がすすんでいた 強健な鋼材で梁を作ると、あれよあれよと いう間に壁が出現した 出来上がりからは想像できないほど、その 鉄の波板の上のかたまった水灰石の床は薄い。 まだガラスが全部はまっていない窓のそば に立ち、アンドレは外をみていた …死は、こんなにもちかくにある… 緊張感が、人格に染み込んでくる実感を感 じた この恐怖で、もし神がいるとすればかれら はわれわれを管理しているのだろう 恐怖を感じなくなったとき、おそらくバビ ロンではいかづちがおちたのだ * ぼうず、金はたまったか 下層階にある休息場のよこにある屎尿と給 水の水場で、職長はそのおおきな両手で水を 受け、のみながら、アンドレに聞いた 半分は社交儀礼である が、しかしそのようなことを軽侮してはな らない それは礼儀だった このようなところで、礼儀を欠くと命にか かわることは、官僚にはわからないだろう …みんな、もらうとすぐに使っちまうが、 この景気だってそう無限につづくもんじゃな い 戦後の復興でひとつ、 それから戦略産業の事務員のためのビル需 要で、ふたつめ、 それ以上は仕事は理屈の上ではないはずな んだ このビルの持ち主を知っているかい? 保険会社だぜ。 保険会社が自分たちの客にはらう利息を保 証するために、好景気を見込んで、客の会社 に貸すんだよ 巨大な資金をあつめるから、その運転もこ のようなどでかいものをつくらないといけな いわけだ つまり、このビルの寿命も、おれたちの仕 事も、景気のよいうちだけだってことだ、な。 アンドレはおなじように水を飲んで、その ぬれたくちもとで、にっこりと笑った 職長は、すこしアンドレの顔をおどろいた ようにみつめ、周囲をみまわして、 …おまえ、きれいなかおしてるな、 気をつけろよ。 アンドレはくちもとをタオルでぬぐいなが らめもとだけで笑みを返事としてかえした。 (もう、やっちまいましたよ) そうは、いえなかったけれど。 * ある暑い日、建物のむこうから、大音響が した 部材が崩落し、何人かが死んだ 重機の足場を組み立てていたクレーンも巻 き込まれ、つりさげていた足場用の重厚な鉄 板も玉がけもろとも落下した 中止されていた作業が再開されたのは一週 間後だった いろいろな正確不正確の情報が、作業員が 仕事に集結するようになって侃侃諤諤となが れはじめた なかでも 鉄板の下敷きになって死んだ三人のうち、 ひとりは右袈裟から腰まで、生きたまま鉄板 に断ち割られて絶命したという その話を聞いてからすぐではなくて、三十 分後もたってからアンドレの意識がすうっと うすくなった めがさめたとき、みなれた仮設の事務所の 天井の上で、 緑色の光を帯びた蛍光灯のまえで送風扇の ゆっくりとした羽のうごきが、ゆっくりとま わっているのが見えた だいじょうぶか、あついからなあ 職長が心配そうにながめていた 別に怪我がなければ、俺は指示を出さなけ ればならん、 俺は現場にもどるからもうすこし寝ていろ これやるからポケットにいれておけ 夏季用の塩分キャンデーを大量に灰皿の横 にぶちまけた …自分の芯に、女がいることが、こういう ときは、うらめしい アンドレは、なさけなく苦笑した ---------------------------------------- --北海2-- 昨晩のことはあくまで記憶にとどめ、アン ドレはおそい朝食をコーヒーで胃に流し込ん だ ばりばりと、ちしゃと安い厚いハムがはさ まったフランスパンをかじり、がりがりと胃 におしこむと テレビを横目で見、新聞を読んでいた 街を流し、書店をひやかし(そこではイン テリア建築の雑誌と科学技術の雑誌を読んだ) 市場で箱ごと捨てられるあわれな果物をなが めた 博物館や美術館は興味がなかった ただ、画廊があると熱心に近寄ってくる店 員をさけつつ絵をながめにはいることも多か った その合間には、いつもベージュのコートの ベルトをだらしなく石畳にたらしながら コーヒーの香りに北ヨーロッパのたぶん氷 の粒でできている綿を引きちぎったような雲 をしたからながめるの、だった 旅行のばくぜんとした目的は、無意識でひ とびとの生活とあきないをみつめるためであ る 色狂いのアンドレは、シャツの下で、自分 のおおきな乳首がうずくのをかんじた …おれ、おんな、なんだな… かすんだ青空をながめた 戦争のときは兵士が喚声を上げたであろう、 ペストの時には、腐敗した死体が山と詰ま れたであろう、とてもすりへった黒く光るい しだたみをみながら、アンドレはぼんやりと していた むきだしの、腰をたかくかかげることに、 覚悟はかたまりつつあった たぶん、今の年齢を過ぎたら、その意味で の自分の商品価値はないだろう でも、そのあと、どうするのだ よしんばもくろみどおり、金をためること ができるとして 「それ」を通過した、自分が、自分でなく なってしまったら、どうするんだ いや、快楽におぼれて、そもそも、なにも 残らないかもしれない… しかし、経験がある、ということは自分の 気持ちを期待にこじ開けつつあった …破滅への、とびら… 一面では、たしかに、そうなるだろう 募集の情報をあつめることは、意外にも苦 労はしなかった タブロイド紙の募集には、ホステスや恋人 交際募集の記事が順序も雑多に組まれ、その 段組の雑多さは、その募集の内容の、記事に かかれている条件以外のたぶん募集氏がいい たがらない行間の悪い情報をも、あるていど 想像できた 多少の雑音は、それこそ気合でのめしてい かなければならないのだ おおきな広告と、ちいさな広告をながめて いて、不毛な推理をくりかえしていたが、な かばあてずっぽうで小さな広告の電話番号を メモした はいいろの電話に、ギルダー・セントをい れ、電話を自動作業のようにかけた ---------------------------------------- --北海3-- 仕事は、拍子抜けするほどあらかじめ想像 していたような悲壮感はなかったことにおど ろいた 男性の胸板の下で、熟睡している自分に気 がついたとき、不幸を識別できないほどの昔 のまどろみの記憶を、とてもなつかしくおも っている自分におどろいた 最初の客は、とてもやさしくて(もっとも、 入って間もない少年は、必要以上おびえたり しないように、主人の配慮で、少年の扱いに 手馴れた常連にしか紹介しないのだ、という ことはアンドレは後で知った)行為をおえて も、アンドレの背を優しくなでてくれた …これではお金は、もらえないな とおもったぐらいである また、指名するから にっこりとわらった、白いややうすい髪の すこしふとったおおがらな男性は、小さな商 店の店主だった こまった アンドレはとまどった この状況に、おぼれる… むかしの部屋では、もっとひどいことをさ れたことは、なんどもあった 面白半分で、いろいろな器具でおもちゃに されたこともあった 挿入されるとき、こんなにも気遣われ、絹 や真綿を扱うように丁寧にやさしく扱われた 経験など、正直、なかった もうすこし、乱暴に扱って欲しい、という と主人はびっくりしたように、 「きみたちは、高級娼婦なんだよ 商品には傷をつけるわけにはいかないだろ」 とたしなめられた じきに、アンドレは普通の客をもとるよう になり、 たまにあたる粗野な客のほうを、楽しみに 待つようになっていった そんな彼を、主人は積極的だと、褒め、き みは掘り出し物だねえ といって、 「運のいいお買い得品だ」とまでいった 怒っていいのか笑っていいのか、わからな かった 楽しんでしまえ、と暗幕を切り裂くと、あ ふれる光と青空に、皆がびっくりをする ただ、問題なのはその光を浴びるものがワ インセラーでしか生きていけない、かびと生 き血をよすがとする吸血鬼である場合である この世界では、吸血とはあまったれた子供 を意味していた 愛撫と挿入だけを我慢すれば、なんでもお もちゃを買ってくれるのが客だ、と本人も自 覚していない無意識のこどもが青年の精神の なかにいるとき、 ひとはなかなかそれを見抜くことはできな い ゆえに新人の面接は、主人自らがおこなっ た 重心ができていない、すがって生きるだけ の安易な気持ちで参加した依存心が強いまだ の子供は、たいていうまくいかなかった 男の子を買いに来る客たちは、世間の疲弊 と肩こりを癒すために、健康な青春の裸を見 に来るのだ 親の腐敗は、子供にもうつる 親が官僚主義のような悪い仕事をしている 場合、子供は親を見習ってたとえばこのよう な「仕事」でもせっかくついた客を骨の髄ま でむしるとして、害虫のようにきらわれるの である もちろん、主人やこの店の常連は、そうい う種類のいわゆる「潜在的な不良」は一目み ただけで、すぐわかるそうだ アンドレは、内心、舌を巻いた 客とは、餌を食いにくるのではない 遊びとしての新しい発見と組み合わせの妙 を、優雅に提案されたとき、初めてそこにお 金を払うのである たとえば、アンドレがやりたい、とおもっ ている未来にしても、 ぎりぎりで走り出す、貧乏臭さは、すべて の事業で、最初から失敗の元となるのだそう だ これは、アンドレが主人から学んだ第一の 事柄だった ---------------------------------------- --北海4-- ライン川が雪の混じる冷たい海に注ぐとこ ろは、レオポルド王のころから、緊張が解放 される快楽の都だった 金髪のヴァイキングであるノルマン人の少 年は、とても情熱的で感度がよいので、ここ はいつしか、悪徳を謳歌する魔都にもなった ホーランドが、どうしてもカソリックのベ ルギーと一緒になれなかったのは 快楽の自由に教会が入ってくるのを拒否し たからでもあったのかもしれない そのような街では、少年はのしかかられる 苦痛を快楽に転換しなければならない そこに魂の救済を感じることができるかど うかは、色子ひとそれぞれだった アンドレはそのようなものとひきかえに、 繁盛するときは運がよければ月に百万ちかく 稼げることがもあった 自分にそんな極端な魅力があるとは思えな い 特殊な需要がある法律すれすれの業態とは いえ、当時はそれなりに景気がよかったに違 いない アンドレが三年半滞留した宿の主人は、も と絵描きだったと自分では話していた 食えないので、しゃれで始めた馬鹿宿があ たってしまて、やめるにやめられなくなった のだと、滞留して三ヶ月目の食事で説明され た けっこうなことだ、とアンドレは内心舌を 巻いた もともと、そういう事業にとても適正があ る才能を本人もしらずに退蔵していたのだろ う、このひとから学べることは多いのかもし れないと、かれは多少期待をした 面接のあと、とてもうまい食事を振舞われ、 ワインをいただき、 肉体を点検された 気をつけて聞いていないと気付かないが、 すこし言葉にしながまじる主人は、男の子 のからだに精通していた こんなことも、ああ、こんなことも、アン ドレは自分の体にまだまだ知らない部分があ ることが多く隠されていることを知らされて、 何回もおどろいた くろいさらさらした髪のこうべをたれて、 はあはあと肩で息しているアンドレに 合格だね と満足そうに告げたものだ 外見だけでもとることは決めていたが、き みは経験もあるみたいだしこれからさらに磨 きをかければ、もっと稼げるだろう すこしつきはなしたようなその声が、じつ は静かなやさしさに満ちていることに、その ようなことに敏感なアンドレは、すぐに気が ついた アンドレは主人を荒い息で見上げて、にっ こりと口元で笑った うれしい、とおもった その館は、色子の源氏名を色彩の名前で統 一していた 一番稼いでいる年長の青年は、源氏名をイ ンディゴ、といった 個性も年齢もさまざまだが、当時その宿に は十人程の少年達がいた 一週間の見習い期間のあと、アンドレは 「バーミリオン」の源氏名をもらった あの、俺黒髪なのに、なんでオレンジ… 色の名前はみかけじゃないだよ 主人は面白そうに笑った 性格がわからなければ、イメージに合う色 のなまえはつけられないからね だから、名前は、はいってしばらくしてか らでないと付けられないんだ 友達になるだろう、二、三の先輩の青年た ちが歓迎の表情をうかべている かれらはみな、美しかった すくなくとも人生の苦痛とは無縁のように 思えたが 新天地のようなものにつねに奔流のような 憧れを抱くのは、男の子にとって、遺伝子に 仕組まれた、やや、哀しい機能である 自分は、たぶん主人の生きたセンスの群れ の中で働くことになるのだ、ろう そして、たぶんここでは、自分もまた主人 の生きた重要なセンスの一部であるのだ アンドレは、新しい生活が始まったことを 感じていった ---------------------------------------- --北海5-- 「インディゴ」は、この店には二つの欠番 の源氏名があることをおしえてくれた ひとつは「フタルシアニン」という名前で、 主人が思いついたがあまりにもいやみなので、 冗談の扱いに降格した名前であった その性質は、人工染料の性格が強く、また、 日光にとても弱い色であった 色は、青緑色であるが、群青の焼成獣皮鉄 窒素青のような深みも、 三重芳香環振動単一炭素青のような色の 純粋さをももっていなかった その色素は、緑青に覆われた飾りのおおい 門前町の乞食が、中途半端な有機物をむしろ としてまとっていたすがたに似て、 また紫外線に極端に弱いという性質は、な にか泥酔している吸血鬼をも連想させた 主人は、飲み代欲しさだけに応募してくる 無能な不良の少年を断るとき、 「今日も、フタルシアニンが来た、時間のむ だったなあ」という表現で使うのだった もうひとつは、こういう表現は定番なのか もしれないが、紅・ルージュという名前だっ た 主人は、この名前に、色気はあるが機知が ない、として男の子の名前に使うのを嫌った つぶされた苺は、濃い砂糖の浸透圧に封印 されなければ、腐ってしまう そのすがたを、受身過ぎてどんどん不幸に なる人格ができていない大抵は年少の少年の 不幸な実際の過去の記憶に照らして、たぶん 主人は嫌なのであった 瓶詰めのジャムは呼吸をしていない、とい う意味では、少なくとも主人にとってこの名 前は過去に眠る死体であった ルージュの意味を聞いたとき、アンドレは やはりここもいろいろあるのだ、と理解とい う適応が進みつつあることを感じ始めていた インディゴも、また美しかった かれは北欧人であった 髪は金髪でさえないプラチナであった 白子でない証拠に、瞳は明るいブルーであ った その首筋には、よく見ないとわからないく らいのほそい金の鎖がかかっていた ほとんど白一色のその肉体に、なぜ主人は 深い青の影をみたのかということは、彼に会 えばすぐわかるだろう 彼を覆っている白とは、たぶん、観念の世 界のなかで、ブリズムの集合体なのである 不溶性核酸部品物質の結晶が、光を三原色 にかみくだき、返ってくる返事の波長によっ て、青い魚のうろこは、輝く青に輝くのであ る 普通、動物に青い色素はない 蝶や孔雀の青も、波長格子によるプリズム の青である インディゴの白は、その陰りに、つねに青 の気配を放射させていた 青は難しく、かつ貴重であった 色は、より高貴な波長を吸収しなければ、 みづからのオリジナルの色彩を放射すること はできない そこには、エネルギー的な、精神的な、美 しい依存があった 色は、赤から青にいたるにつれ、その高貴 さを増す インディゴはつねにほかの少年達に慕われ ていた 青は、自分より高貴な色をもたない 帝王の孤独であった 青は、自分よりもつよいエネルギーをもつ、 紫外線の暴力をつねに乞い願っていたが、 それはこの惑星の三重酸素によって、平和 を求める条約の協定として観念のなかで禁止 されていることに似ていたが、 「インディゴ」である青年は、あえぐぎり ぎりのはざまで、するどい刃物を、もっと、 もっとと自分のほうに引寄せるのだった インディゴの手足の細く長いからだが歌い 上げるそのベッドは、つねに情熱的で激しい と客のあいだで評判だった かれは、アンドレよりもさらにはげしく、 被虐を客に乞うた かれはみづからが望んで蒼い放射能を食ら うその行為が、客に彼を生きた精神薬として の人気を博していたのだった インディゴ、は危ない、とアンドレは想っ た。その危ういはかなさが、商品価値でもあ ることをたぶん「インディゴ」本人も知って は、いるのだろう アンドレはときどき心配になった 氷河が腐った土の発生を許さず、針葉樹が イソプレノイドのフィトンチッドで土地丸ご と殺菌しているスカンジナビアンのたぶん弱 い免疫力が、 赤の他人の旅行者の体液を生で注がれる毎 日の生活をしていることを インディゴの青は、たぶんほかの色子のよ うな物質的な色素によるものではなかった かれはスラブ人が作ったプールのなかで光 る 許されない物質から発せられる青いチェレ ンコフの人魂の光なのかもしれない 店は、構成が巧妙だった その、コンポジションはあの主人が絵画で はなくコラージュや彫刻のほうにより才能が あることをも意味していた それがコンダクタであるという意味である 場合、確かに人に指示をして経営をするとい う今の立場は、主人にむいているといえるだ ろう 雪と水が豊富なこの街は、凍死する危険を 受け入れることができれば その清浄さをいつでも享受することができ る 七月でも、十二月でも、この町は、美しか った この町で、人が死ぬときは、冬ごもりを失 敗した小動物がやせおとろえて凍る季節であ る 店の名前は、グリーク、といった 店主は、盛り場や色町のゲットーに店を出 すことを嫌い、普通の雑踏にごく普通のカフ ェとして建物の一階に、気候がよければ パラソルを出していた 遠くからきた客は、まずこの店を、表通り から目印にしてやってくるのである 隠語と符丁を目印をつけているギャルソン に伝えると、万事心得ている彼は、二ブロッ クむこうの建物の場所を伝えるのである カフェの若い女中達は、この店の裏の顔を、 知らない 厳密には、この行為は法的に開放的なこの 国では別に違法ではなかったが、店主はでき るだけ営業を開放的にすることに慎重を通し た 用心に用心を重ねる繊細さは、なるほど女 性的なものを感じさせる 誰がくるかわからないので、カフェの担当 は用心のため現地まで案内することはしない 現地では、おおきなガラスのひろい窓の喫 茶店が開かれており、その店もまた、カモフ ラージュであった ただ、しらずにここをながめたひとは、妙 にこの店に学生がおおいことに気が付くだろ う それも、男子の 客は外から、あるいはなかにはいってお茶 を飲みながら品定めをし、洗面所の横にある 札のついてないしかし目印のある小部屋に入 って、担当を呼び、指名と値段の交渉をする のである インディゴとアンドレは、出稼ぎや移民の 人々に人気があった 最初、アンドレは、自分のからだをおおう チョコレート色の客の肌に、おののいていた が インディゴに教えられたとおり恐怖が自分 のからだを拭き去るまで耐えていると、実は かれら、あさぐろい異民族が野卑さのなかに も、紳士的な節度をも兼ね備えていることが、 だんだんアンドレにもわかってきた みかけとちがい、かれらは大抵、繊細で、 その行為はやさしかった からだのあらゆる部分が大柄で、しかし繊 細にしなやかなからだに、次第にアンドレは 尊敬の念を抱くようになった 窓の外から、中東やアルジェリア系のひと びとが中を覗くたびアンドレとインディゴは、 ひじをこずきあって、苦笑しながら順番を奪 い合うのである むしろ、白皙の人々のほうが変態は多かっ た 肌の色が濃い人々が、男色は普通の性の単 なるバリエーションの一種と割り切って受け 止めているらしいことに対し 偏見の抑圧があるせいか、普通の志向では 満足できない客も多かった アンドレは客の容姿や行為をふくめた趣味 には、とくに嫌悪感をいだかなかった 客と色子、欲望と代金。 わかりやすい関係は、アンドレにとって、 わりきってしまえば気楽なものであった なめろといわれれば、白い肥満の客のうす むらさきのアヌスをも、黒いほそいさらさら の髪をうずめながら、たんねんに少年のあわ い舌で、なぞった。 アンドレがたえがたかったのは、態度から うかがえるその人格や、人相から、客がよい 仕事や日常を、おくっていないであろうこと がうかがいしれるときであった そういうばあいは、じぶんにとって不覚に も満足の安堵をおぼえてしまった邂逅の記憶 を、現在の嫌悪のうえにかぶせるのであった そのときは気付かなかったが、それは訓練 として、マゾヒズムの世界の入り口だったの である …のちにインディゴと一線を越え、気持ち のうえで、はらわたをまぜあってしまってか ら、そのようなときはアンドレは精神的な苦 痛を、かれの美しくやさしげなおもかげをお もいうかべることで、のりきるように、なっ ていった 客には、兵学校や高校の教師も多くいた 軍隊の生徒は、国の財産であり規律の緩む 行為はできないし また未成年に手を出すことのできない教師 もまた悶々としてアンドレたちに性欲を解き 放ってもらうのである アンドレは、多くの生徒達の名前をささや かれ、客の叫びに聞きながら犯され、 そそがれた ポール、 フィリップ、 ハンス、 ペーター。 ヨハンとジョンはほんとうはおなじなまえ である 客の言葉がききとれないとき、アンドレは 全裸で、 ここが人間と物流の十字路であることを胸 と乳首を這う客の愛撫で感じていた ロスチャイルドのむかしから、商売の悪徳 は、自由の悪徳なのかもしれないなと、粘液 でまみれた、若い肉体で、ふふ、と内心笑っ た 肌の深い色の男達の意外な繊細さを指し、 アンドレが それって、昔はあの人たちが世界の主人だ ったということなのかしらむ とインディゴに聞いたとき わかんないよお、そんな難しいこと インディゴは、おどけたのだった ある日、インディゴはアンドレに水着を買 ってきた 日光浴しようよ まだあどけない笑顔で、六月に笑った オレンジのきみはオレンジを履くべきだ といってわらい、自分は黒の水着をさっさ とはいて表に出て行った 彼が買ってきたのはマンダリン・オレンジ の色だった すこしうれしくなってぼんやりみつめてい たが おもてから、はやくー と声を遠く掛けられて、いそいそと履いて 表に走っていった インディゴの瞳には揺れる黒髪の白いから だが明るいオレンジ・ジュースの腰で走って くるのが、まぶしくみえたにちがいなかった それほどかれは嬉しそうだったから そのときには、片鱗もあの独特の蒼さは見 えなかった かれの表情は、まさにプリズムの機能であ り、その機能はいま赤や黄色やまぶしい緑色 をふくむ虹色でかがやいていた ふと、かれの次に繊細なのだろうアンドレ は不安になった 光で魔法のような色を演出する彼は、 光がないとき、絶対零度に近い木炭の漆黒 のエリオットがすすり泣くプランクの絶対黒 体の顔をしているのかもしれない これは、ある程度本当だった のちに親しくなって、おたがいに全裸で、 シーツに包まり、おおきな白い枕でめざめた 彼が、 となりでねむるインディゴの美しい顔の両 のまなじりから、 一対の哀しいなみだがこぼれているとき 彼の故郷にたぶん哀しい記憶があることを、 類推した その意味で、僕らはみんな「カーマイン」 とおなじだったのかもしれない しりあってから、はじめての情事にぼくら がおずおずとはいるとき、インディゴは、く びすじのほそい金鎖をはずした …そんな、ほそくて、なんかの拍子にちぎ れたり、しないの ぱちん、と小物入れをしめるインディゴの 背中に、僕は問い掛けた ちぎれるたびに直す、どうしようもない場 合は買い換える… ゴールドだから、けっしてやすくはないけ どね、おまもり、なんだ 僕の セックスを自由に、ときに情熱的にするた めに、インディゴは僕とも、客との仕事には いるときも 鎖をはずす くちづけをおたがいに、ついばみながら、 彼は、金でなければならない理由があるんだ、 といった どんな、といいかけたくちもとは、インデ ィゴにふさがれた …そのうち、おしえてあげる いたずらっぽい笑みでインディゴは返事を 返した 両腕をひらいて、アンドレをさそうしろい からだのインディゴは娼婦に変身をはじめて いた * インディゴは大学生だった ライデンの町に本拠地がある大学に通って いて、まだ時間がある年度はここで学費をた めるのだという さ来年は、実習が増えるので、この仕事は やめなければならないなとさみしくわらった インディゴもまた、ある意味この仕事を楽 しんでこなしていたのである 僕たちは、二つ並ぶ芝生の上の白い木の日 光浴揚のベンチにそれぞれ、 背になり腹になりながら貴重な夏の日光を あびていた 日が翳ってきて、僕らの半身を枝の影が覆 うようになってしばらくすると、 彼にくちびるを奪われた 彼がやさしそうな返事を待つ表情で、笑っ ていた この仕事中、彼は僕のより親密な友人とな った ---------------------------------------- --北海6-- インディゴは、長身だった。 のちに恋人になることになるトニオに近く、 百七十の後半の身長を持っていた 彼に限らず、ベネルクスやスカンジナビアン の若者はおおむね骨格が上方にすらりと、のび る。 かれが、冬の公園で、運動着でたたずんでい るのは、とても絵になった ワイン色を帯びた黒のスポーツウェアの上下 で、袖と脚の脇には、あかるいピンクのごく細 いラインがはしっていた そして、そのうえにごくうすいいろのさらさ らとした金髪がのっていた そのピンクの蛍光色の細いラインが、屈伸や マラソンの動きでおれまがり、ゆれて大地をち いさくなるまで遠くまで走っていくのは、 かれがたぶん、じぶんの骨格の価値を知って いることをアンドレに想像させ、 それがまた、アンドレにはここちよかった。 かれは、いつも遠くまではしっていった。 無理に速度を上げない、ゆるやかな走りで、 一回につき最低十キロははしるのであった 街中では、距離が稼げないため、二、三ヶ月 ごとに郊外に遠征し、そこでは三十キロほどを はしってきた。 かれは、じぶんのおおがらな骨格が循環と呼 吸のふいごになることをよく知っているようだ った いちど、アンドレは彼を水練にさそったが、 逆におおきな四肢がじゃまになり、うまくおよ げない彼にアンドレはくすくすわらった。 なるほど、僕のうつくしい彼は、海牛ではな いわけだ、と批評すると かれは、ひどいなあ、いつもの人の良さで笑 い返してきた 逆に、遠征ではアンドレは遠くにちいさくな るインディゴのすがたをもうろうとなる意識の なかでよたよたとさがすのが、やっとだった トレーニングのあとでシャワーをふたりで石 鹸をぬりあって泡をながし、バスタオルをふざ けて奪い合うと、 じゃれあって、そのまま真摯に、みつめあっ た。 アンドレの側からみれば、 ピンクの線がはいった黒いウエアがつつむ骨 格がうつくしいとおもったときは、 はだかのかれの背中と四肢に背後から、乗り あげ、 みづからのあしの外側にしろいながいあしが おおきくはみだす蚤の夫婦の交接で、 インディゴがつらぬかれるよろこびにからだ をふるわせるのをそのかたちのよいしろいちい さな尻の肉の一対をつよく指でにぎりこめる行 為をおこない、 上気したかれのピンク色の高いはなすじに吐 息とともに前髪がゆれてかぶるのをよこからた まらないきもちでみていたことをおもいだして は、 アンドレはみづからの両の乳輪を、肩をひろ げ、むねをつきだすようにして差し出し、から だの前面の愛撫が終わったら、背後からふかく 掘ってくれ、とうるむめでささやくのであった ---------------------------------------- --北海7-- いいわけ、はよくない。 アンドレは宿の主人がなぜゲットーに店を おかなかったのか、また客に二重に宿の場所 をかくしていたのか、ゲットーのひとびとを まのあたりにしてそれがわかった気がした かれらは、いたいたしかった 世間がいかに同性愛を迫害しているかとい うことを力説する自称義憤戦士は、よくみる と万事事務能力が無能で、センスがだらしが なく、 じぶんがいかに恋人を愛しているかを力説 する自称愛の奴隷氏の恋人は、まるで不健康 にふとった雑種の野良犬にしか見えなかった ふきだまりだった そしてかれら人工珍獣をとりかこむように 自称人権の戦士がかれらに税金から福祉をあ たえるように力説して演説氏自身のための自 己実現を、電車ごっこの遊びのようにかなえ ていた 愚者の庇護者であることを選べば、演説の ねたはつきない 愚者の飼育係の必要性をみずからの雇用と して力説する力学は それが人間の弱さとして膨張する構図とい う意味で、官僚主義とおなじであった 弱者を保護しなければならないのは当然か もしれないがそれと飼育係の雇用はべつであ る そのような構図の場合、飼育係は風向きに よってかんたんに密告者になる 彼らにとって論理とは、 エンジンをかけて前向きに認識を切り込ん でいくためのものではなく、 自分たちのくずれかけたやかたの土台の石 垣の補修につかう漆喰であったのである おおきな自然の力学による崩壊が起こった 場合、漆喰のめばりが役に立つものか かれらは幼稚であった 社会現象を含む自然の力がいかに巨大で、 社会と言うものがいかに小さくデリケート なものであるか、 知っていればそんなあまったれたことはい えないだろう 宿の主人いわく、 あの街から悪い影響を受けたくないのはも ちろんなんだが そもそもあのまちにあしがむかう人間は、 センスの意味で世間からあいてにされないか ら、つまり金をもっていないのだ、というこ とであった うすよごれたかれらのなかまになるよりは、 べつに男色家ではないふつうのひとに、男色 の気晴らしを提供するほうがまださばさばし てはいないかね、ともいった 色町は、その背後につねに精神的なスラム を抱えている。つまり、色以外に売るものが ない若い者が色を売るわけであり、そこには 事情がたいていあった。 親に捨てられたり、移民でとりあえず現金 が必要だったり そういうせっぱつまった現実を生きている ものにとって、観念にしがみつく彼らのうま れつきのあまえという高級で貧乏くさい道楽 につきあっているひまはないのだ アンドレも、そしてすくなくとも外見では インディゴも、じぶんが同性愛者であるかど うかということには、じつはあまり関心がな かった 行為で内実を帰納できないゆえんであった * アンドレは夜学で、理論とは道具ではない のだ、ということをプライベートで学んだ わたしはもうそっちは卒業したからね、と 理学の先生は前置きし若輩は誤解することが おうおうだが、とアンドレは黒髪をやさしく くしゃくしゃとなでられた 近代は、科学と工学をその把握でごっちゃ にしている、とおしえられた たしかにイギリス科学、ドイツ科学は国力 増産のためでありその意味で工学のしもべだ ったから、一般にそのような誤解が生じても しかたがない面があるが、 本来、Scienceとは、認知学のことであり 勝利や利潤のための恣意に奉仕する工学では ないのだと。 認知とは、一面冷徹であり、ときにとても 苦い どんなに技術がすすんでも延命は可能かも しれないがたとえば死を回避することができ ないことをみとめるにがさがそのひとつだ 理論や論理がここではせまく科学のそれだ とすると、理論をふかめればふかめるほど、 逆にわれわれは可能性と選択の範囲がせばま ることに気がつくだろう 正統的な意味での科学の力とは、できるこ とをあらたに発見することではなく、できな いことを明確に認識することなのだ その副産物として、残渣としてなにができ るのか、ということを再発見することはある がね いにしえびとはそのあたりをよくわかって いたらしい ふるくは、学問とは論理を通じて倫理にな った。倫理とは、できないこと、してはいけ ないことの体系だ ベルヌが晩年書いたように、これは毒ガス や核爆弾の逆のすがただろうね * アンドレは、むかし、このやりとりをおも いだして、アウレリウスのものではけっして ない備忘録に、 科学 工学 哲学 宗教 と四つをならべて書いたことがあった おたがいがおたがいに等価で独立していて、 またそれぞれがそれぞれに関連ある下部要素 で連結していて、なおかつおたがいにことな っている おおげさに、いえば当時のアンドレにとっ てこれはエンペドクレスの四元素にみえた いうまでもなくそれは、火、水、空気、土 である アンドレは夜学時代の図書室の記憶がはっ きりしなかった 氏がサモス島だかシチリア島だったか、 その時代が大王以前だったか以後だったか。 もし、大王以後でシチリア人であったのな らば、エンペドクレスはアルキメデスの同時 代人であり、エーゲ海の理想的な都市国家の 時代が崩壊した後の時代のひとであったこと になる それはローマの勃興期、アレクサンドロス 東方征服大帝国の分裂後にあたるから、氏の なかの四元素のうち、業火火炎はゾロアスタ ーからきたイメージかもしれない 青空の下の地中海に船を、うかべ岸や島々 の常緑樹の山々をながめながら、吟遊の英雄 の詩をききながら酩酊すれば、 博学の泥酔の脳裏には、炭素の六員環のア イデアとおなじように、四元素がむすびつい ても、ふしぎではない 東方は、酒が似合う。 砂の眠りと泥酔が発想の暗い泉であるとす れば、ミューズの神殿は、忘却のレテ川のほ とり、ハデスの世界のそばにある アルキメデスは砂のうえのはかない図形で 思索中に、覇権主義と属州不在地主の官僚主 義に膨張するローマに、殺された ローマはギリシャの息子であろうとしたが 孫はしだいにそのことをわすれていった ともかく、プラトンの孫弟子は都市国家群 の衰亡期にあたり、文化を古典にすることに よってギリシャ世界を人類の歴史にのこすこ とにおおむね成功したということがいえるの かもしれない バルバロイに対する寛容がなければ、のち のサラセンからも文化を尊敬されることもな かったであろう 版図の寿命はごく短かったが、あとを襲っ たローマがしばしば憎まれたこととは事象と して対照的であるようにおもえた 帝王本人がそこまで明確には考えてはいな かったかもしれないが、すくなくとも東西の 混合の刺激と、自分たちの時代がじき潮流と しては終わりをつげるであろうという漠然と した焦燥感が、 すくなくとも実学の業績として最後の都市 国家群の先哲を思考にかりたてていたのは事 実であったかもしれない そのような態度と保身はたぶん正反対の磁 場の極にあるようにアンドレにはおもえた アンドレは武道を乗り越えた健康な肉体の うえの博愛が古代に可能だったらしいことが、 それが美化された伝説になってしまっている ことに、とてもくやしい気持ちがしていた 幾何のユークリッドはこの時代のひとであ った アンドレのこの四つを表現するのにあたり、 レヴィストロース風なフランスの教条主義 であれば、これを四つ巴のように書いておわ りだろう 自由の国でもないのに自由の国であるよう に宣言するのは、役に立たないしごとをし、 なおかつ貴族の兄弟でもあるように振舞う知 識人を革命で定期的に恫喝するための内務的 な憲法であった 若いアメリカは断るべきであった 女神がかかえている本は処刑リストである …おたがいが等価であるのだから、こうい う関係を具現化するのにあたって、力学を強 調したほうがよいことまではアンドレにはわ かっていた つまり、それぞれを四面体の頂点に置くほ うがより四つ巴の平面的な図よりはふさわし いようにアンドレにはおもえた アンドレはケプラーの業績をおもいおこし つつ、夜学時代に三次元に四面体の頂点を代 数的に置こうとこころみたことがあったが、 うまくいかなかった インディゴの友人になってから、栄養学と 無機化学の書籍を全裸でねころんでみていた とき、岩塩の結晶の解説にその答えをみいだ した 岩塩は陰の粒子と陽の粒子がギャンブル・ ダイスのような六面体の頂点にたがいちがい に配置された結晶の構造をもっている 六面体の頂点の数は、八つ、陰と陽のそれ ぞれの粒子はおなじ数だけあるから、半分に 分割されて、その頂点に四つづつおさまる アンドレのなかで、図版のなかのピンクの 上等な岩塩が観念の四元素とむすびついた 桃色が愛情に暗示をかける色であるのなら ば、この反応はインディゴの体温がもたらし たものかもしれなかった たとえば、陽の粒子だけをむすべば、そこ に、六面体のなかに正四面体がすがたをあら わす なんだ、そういうことか インディゴのとなりのあさの光のなかでア ンドレは独り言をいい、インディゴがめをさ ました べつにものすごく感激したわけでもないの で全裸で表にはしりだしたりはしなかったが 白蛇のようなインディゴにおさえかかられ、 まきつかれ、しっとりとしたその長身の重み が おしえろよー とのしかかられるそのおもみのくるしさに えうれか、えうれか とふざけてうったえたのだった この宿の主人によると、おくさんをしあわ せにできなかった十九世紀の英国の属国の数 学者がこの種の構造に造詣が深かったそうだ 空間の拡張複素数の基本の概念は、岩塩の 陽と陰の概念そのままだった。掛け算の演算 で、陽は陽、陰は陰で群れをなすのだそうだ 主人が「あのひとはアル中だったっけ」と 聞くと、インディゴが「ちがいますよ」とこ たえるやりとりをみて、アンドレは へんな売春宿だな、とおもった アンドレはじぶんのことはすっかり棚に上 げていた。 ---------------------------------------- --北海8-- あれ誰 手がとどく距離で、たがいがはだかで、ダ ブルサイズのベッドに四肢と肉体をほうりな げていた それぞれが腰から、あるいはへそのあたり から、ともに、しろいおおきなシーツの波に さらわれ、おおわれていた インディゴが、あおむけ、で、シーツのし たでほそく、しろいながい脚を、 ほそくしかしおおきなあしのひらを開くよ うにして、立てひざ、 アンドレは、はらばいで脚をあそばすよう に、若い、せなかの貝殻骨をくっきりともち あげながら、ほおずえをついていた プライベートでも、友情を育めるよう、主 人は、色子の部屋におくベッドも、いとなみ ができる大きさのものをすえつけていた ただし、材は節材の、けして高級ではない 品物である 木組みは、無骨な木こりの組み方をしてい るので、すこしぐらい情熱的に愛しあっても、 きしむことは、まったくなかった 主人の、このような的確なこまかい配慮は、 たてものの仕組みや、その業務の仕組みのそ こここにあらわれていて、たまにでるあのふ ざけたいいまわしさえなければ 大人物として尊敬できるのにな、とアンド レはおもっていた ふたりとも、うまれたままのすがただった ふたりは、まるで双子のように、そのから だがぴったりとあわさることに、その当人同 士が、おどろいた さっきまで、役割をかえながら、たがいに ひとつづつ、愛し合ったのである …かあさんさ 白黒のちいさな写真が、やはりちいさなあ め色のフレームにおさまって、よい材の黒っ ぽい書見台のおくにある本棚とさえいえない 書籍やぐらのうえのほうにたてかけられてい た むすこが、男色をしているなんて知ったら、 悲しむかもしれないけど ずいぶん、古い写真だ ぼくが、三歳のころなくなったんだ おぼろげに、やさしかった記憶しかのこっ ていない ふうん … アンドレは、おもった かれの世界は、じぶんとはちがうもののよ うだ、と それは、祝福であった 気持が引きちぎれることの連続という訓練、 いまでは記憶よりも訓練されたことによる機 能こそが本貫となって そのつらい記憶を日常的には忘れ去ってい るアンドレは、 インディゴの将来に、幸があることを、そ の逆境でつくったしばしばするどい直感でか んじとっていた たぶん、ぼくとはちがう… あるいは、うんと遠い将来、 (インディゴは、結婚しているかもしれない) ふと、さみしくなった こころの、奥底に、あのようなマドンナを もっていれば、いずれかれに興味をもつ女の 子がでてきたとき、 彼女は、インディゴのなかにあるそのマド ンナのすがたを、無意識で感じとり、よろこ んでみづからを、そのひながたにおしこめよ うとするだろう その自然現象は、少女独特の透明なマゾヒ ズムという献身であり、 その場合は、ふたりともおそらくしあわせ になるのだ …アンドレは、うらやましくおもった じぶんは、なにも信じてはいない たぶん、「俺」にとっての、母、とは、う まれるまえの闇でしかないのだろう そうでもなければ、夜や冬に、うらぎらな いやさしさをかんじてやまないじぶんを、理 解できない インディゴは、となりで、聞きごこちのよ い、品のよい寝息をたてていた ---------------------------------------- --北海9-- アンドレは、おもった …現在のインディゴにとって本人は意識し てはいないかもしれないが、男色は、たぶん 「過程」なのだ …またかれのなかには、「憎悪」が、なか った。 憎悪がないことは、純粋ともいえるし、に び色のみなもの平穏とも、いえた。 ただ、完全なるなぎでは、小船とはいえ帆 船は進まないのだ やきだまのボートは、それこそ炉のなかに 憎悪が必要であった 平穏なる静かないぶし銀の輝きを、それは 銀ではなく、工業で作り出されたアルミニウ ムの人工皮膜だといったら、おそらくそれは、 侮辱だろう アルミニウムには、三価の奇数金属の悲哀 があり、むりやりにおおきなちからをかけて 引きちぎると、その断面はバルサの木材のよ うな粉末めいた微細な悲鳴がつらなる 鉄や銅のような、満場一致のなめらかさが ない 迫撃砲の結果、挽肉といっしょにゆがんで 散らばったアルミニウムの食器には、敵を追 い散らす神通力はない 飯盒は、純銀で作らなければ意味はないの だ ただし、インディゴのなかには、憎悪では なくじぶんに対する焦りと愛情への飢えがあ った たぶん遺伝的におっとりとしたその風貌の なかで、自分がそれにひょっとしてふさわし くはないがゆえに、手に入らないかたちでは ないものに 外見ではわからないがインディゴは、つね に静かにいらだっていた それが満たされなかった愛情なのか、身を 焦がしてやまない仕組まれた機能としての神 秘への憧れなのか。 たぶん、インディゴにはそれがどちらかな のかはわからないようであったが、 たぶん、どちらもそうなのであろう インディゴは、アンドレに手をその肌に触 られるといつも、積層の蓄電池から太い電流 がながれだすようなセックスを開いた あえぎ声の尾を引く余韻のかたわらから、 まるで肋骨のすべての末端から骨髄がだらだ らとおしだされてくるようなよろこびを、堪 能するために快感を押し殺すふるえが濃縮さ れた濃厚となって、 インディゴの背に乗るすべての者を、股間 を中心としてひろがるおもにからだの前面す べてでかんじられる絶頂のしびれとして、満 足させた 客が、法悦のけいれんに身をまかせている とき、 インディゴは、客の両腕のなかで背をまる め、ふるえながらそそがれるみじめさをあじ わっていた 何かに、ちかづくために。 かれのベッドの仕事は、もとより、焦りと 飢えから来るひたむきなはげしさが評判だっ たのだけれども、 この売春宿にアンドレが寄宿するようにな って、その仕事に、「深み」が、くわわった と好評を博すようになった。 そんなとき、インディゴは、客にふれられ るとき、そこにアンドレをみるようになって いたのである。 たとえ気のすすまない客氏でも、かれはア ンドレにだかれていることを夢みてその幻想 のなかで遊び、さらに行為が大胆に、妖艶に なっていった ひとは、しろいおおきな大理石の像に、い ままさに魂の灯火がやどったのだと比喩する ものもあった インディゴにとって、それはアンドレの存 在であった。 かれが潜り抜けてきたリアルは、まさに潜 在的にインディゴが欲しているそのものだっ たのである ---------------------------------------- --北海10-- これ何 「裏グリーク」の店のテーブルで、めがね をかけてレポートをしあげていたインディゴ の後ろにたって、アンドレは聞いた そこには、暗室で引き伸ばしたらしい大判 の白黒写真があった 縞々の鮮やかなその写真は、どうやら顕微 鏡写真らしく グロテスクな内臓のように思えた 自分も、はらわたをさけば、このようなも のがつまっているのだ 虫の染色体だよ、きもちわるいだろ 急いで書籍から万年筆で必要な文章を引用 として写しながら、ちょっと間に合わなくて ね、 マスターから、客寄せに勉強する振りはし ていていいとは言われたけれど、 本当にここで課題を仕上げるとは、おもわ なかった 幸い、その日は邪魔になるほど、混んでは いなかった ただ、半分以上の客は、お茶をのみにきて いる何も知らない紳士淑女だったが ぼうと待っている時間がもったいないとイ ンディゴはいった 急なら休めばいいのに とアンドレがいうと、 すこし困った顔で、だって、仕事だもの インディゴは答えた うまくいけば、先生の紹介でイギリスかア メリカにいけるかもしれない …亜麻色の髪の、アメリカね ぶふううっと、ふたりともふきだした 彼は砂糖のたっぷりはいった紅茶と、これ もあまいチョコレートクッキーをつまみなが らレポートを仕上げていた インディゴは、「仕事」のある日は、朝食 も昼食も取らない 腹腔のなかに、食物があると、体形的にも、 行為的にも、あまりよくないのだといった いつぞや、昼食にやまもりのドイツのじゃ がいもと酢漬けキャベツをアンドレが用意し たところ、 「バーミリオン、 これ、ちょっとまずいよ…」 インディゴに、てまねきされた こんな、消化の悪い繊維質は仕事がおわっ てからたべるもんだ きみは、お客さんの前に、こんなものでは らがふくれたからだで、ベッドにのぼるつも りかい そのとき、アンドレは二重の思いで、赤面 した 腹が膨れたじぶんのからだを想像し、 また、インディゴほど仕事に誠実な配慮が 足りなかったじぶんに、である インディゴは、商品としてのじぶんの体調 をつねにチェックし、多少具合がよくないと きは、じぶんのからだに強制的にうすいグリ セリンをつかうこともあった インディゴはしかし、年のはなれた後輩た ちには、それをむりに強制することはしなか った たぶん、彼は、アンドレを同格の同輩と、 みとめていたからこそ、多少きびしい物言い にもなったのだろう 昼食時のじゃがいもには難をつけられたけ れども、唐辛子はインディゴには好評だった おたがいにくすくすわらいながら、たがい に牽制しながらどちらがより辛い料理をたべ られるかどうか競い、そしてそれは後輩の少 年たちの賭けの良い対象になった びっしょりと汗をかきながら、めを白黒さ せるふたりのこの競技の本来の目的は、辛味 での代謝の促進と、ふとりにくい体質の確保 であったはずなのだが 少なくとも、インディゴの「精神」には好 評でも、まずまちがいなくかれの胃の粘膜は 悲鳴をあげているのにちがいがなかった ふふん、ノルマン人が、刺激の強い香辛料 に、たえられるものか。 この味覚に重大な副作用があることがわか ったのは、その合戦が習慣になってしばらく してからだった あるとき、ふたりで静かに気持ちをなぐさ めあっていたとき アンドレは、違和感を感じて顔をあげた なに? インディゴがいぶかしげにふりかえった いや、きみ、きょうは店じゃないよね そうだけど、なに…? だから、洗浄してないんだ、 …ごめん、ニルス、「辛い」。 インディゴはしばらく意味がわからないふ うだったが、突然、 ぷっ、とふきだし、 あはははははは こころの底から笑っていた なにそれ、最低! きたないなあ ムード、大無し! 汚れてはいないようにみえるんだけど… すまなそうにあやまるアンドレを、柔術の ようにおしたおし、 せっかくいい雰囲気だったのに、ゆるさん、 きみだって絶対「辛い」はずだ アンドレは、もうしわけなく、そのときは しかたなく、インディゴの攻撃に身をまかせ た * いろいろ話すうち、かれはもったいない、 もったいないをくりかえすようになった そんなに、いろいろ知っているのなら、ど うして学問の世界にこないのさ と彼は僕と一緒に勉強をすることを強く望 むようになった たとえば、同性愛者として、一生それぞれ の道で頑張りながらときどき週末に深く会う ような人生だっていいじゃないか、と 彼は自分の人生のそばに僕の人生を置くこ とを願い、またそれを誘うようになった 自分は少なくとも、色彩や繊細さを伴う自 分の博覧強記はかならずしも自分が望んでい る力ではないことを説明するのに骨が折れた、 じゃあその力をつかって生きていきなよ、 ずるでないかぎり、能力を使わないのは、 インディゴは、かみさま、といいかけて言 葉を選んだ 自然の法則に照らして、まちがってるとお もうよ 衣食住の道だって能力をつかっていない種 類のものではないといってきかせても、 やや彼は不服そうだった 学問の上では、かれは教師が嫌いなのがた ぶんアンドレの不幸だった 故郷の教師の多くは観念や官僚主義に保身 し、なきさけぶ生徒を助けてくれない たとえば、哲学のようなものは先陣争いと はまたちがうと想うんだけどな アンドレは口を尖らせた ふたりとも情熱がまだあつい年齢だった 客はその100ワットの青年を買いに来る のである ---------------------------------------- --北海11-- インディゴは、この売春窟の建物を、「僕 にとってのフォルクアング」と言った 「神々の館」という意味だということだっ たが、それがギリシャ神話で言うところの冥 府:ハーデスの世界の意味をももっているこ とをあとで、アンドレは知った 神話の符丁にこめられた、歴史をくぐった 洞察には、ときどき、ひやりとする 店になじんでくると、アンドレは「裏グリ ーク」の五階、主人のオフィスが奥にある、 事務所兼、色子少年の溜まり場でときどきま かないを作るようになっていた これ、今日の分 どさりとインディゴが茶色い紙包みを年季 のはいった黒檀のテーブルに置いた 茶袋を抱えたインディゴのひだりての小指 にはとても細い金のリングがあった そのときは、アンドレは、この宿に何故こ のような重厚な家具があるのか、よくわから なかった じつは、主人は趣味で絵描きをしていたこ とは嘘ではなかったが、 印象派の巨人によくあるように、金持ちの 道楽、あるいは金持ちの放蕩息子が、芸術の となりに住むことは、そんなに特別なことで はなかった 主人はどうやら、戦前から続く商家であり、 おもてだってものをいわないことが多い彼の 性格も、そのことをあるていど暗示していた 帰属すべき、よすががないからこそ、主人 は少年の「肉体」というリアルに、数式のよ うな観念ではない、栄養という具体を求めた にすぎない また、たまたま、同性の若者の肉体に興味 があったにすぎない それは性別の、どっちの趣味であっても、 そのリアルは一長一短があったろう 宿の主人が、もし男色家でなかったとした ら、その苦労はたぶん、インディゴの前半生 ににたものとなっただろう 女性には、能力や、つよさが相対的にねづ きにくい。 人生としての、肉体がそのようにつくられ ているのだ 森の中の「おいしそうな」死体に、卵を産 み付けるのは、たいていは雌の虫である 男色家が、女性のいやらしさに、嫌悪の感 情を持つのは、ほんとうは億年の歴史からい えば、いいがかりなのであった 生命が精神をつくるはるか以前から、蠕虫 は、ちいさなたくさんの細長い卵をうみつづ けてきたのだ 子宮があるから、精神に栄養がまわらない のではない 子宮がないからこそ、余剰の活力で、男性 は社会とまた武器でもある知恵をつくったの である あまった、子宮のホルモンは、また、男色 家をつくるのに転用された 皮肉であった ともかく、男性にとって、社会や文化とは、 帰属の正当性として、男性に属すべきもので あり、 妾の側の一族が王朝を崩壊させることに警 戒することは、本当は、君子や王子のもっと も気にかけるべき、懸案の事項であった ともかく、 過剰でも、不足でも、不幸は生じる 金持ちには、金持ちなりの、苦労が、ある、 のだ * 三キロはある程度のフライの量に、こうば しい香りがただよった 皿を取ってくれ、アンドレがいい、中国人 の青年もかくやという青磁の大皿に、ざらざ らざらと、フライが山と、つまれた 八階に間借りしているカーマインが、まだ 成長期特有の食欲で手をのばし、おおきいフ ライをふたつてにとると、ばりばりとかじり 始めた 「うー、あつい、アンドレ、お茶いれて!!」 もともとは漁師やドッグの工員の下町であ ったこの河口の町は、雑魚場であまる海産物 や集結する農産物で、大味で格安な食事に事 欠かなかった 色子は、当番で、主人のふところから、河 口近くの屋台から、熱いコロッケやフライを 山ほど買ってこのリビングにとどけるのであ る このリビングの片隅には、やすっぽい水色 のプラスチックの透明な缶があって その横に 「美味しかった場合は、このギルダー缶に小 銭を入れること!!」 という文字がピンクの、ペンキマジックで 書かれた張り紙があった ピンクの顔料は、おそらく鉄とクロムカド ミウムと亜鉛白で混合されている その缶のそこにはもちろん、いつも小銭は わずか一センチにもみたなかったが アンドレとインディゴはもちろん十セント 硬貨を毎回一個ずついれるのであった その港町は、もと漁師町から貿易港になっ たのであちこちに海産物を愛する文化が残っ ていた 自転車でオフィスから乗りつけた大柄の、 肉体労働もこなせそうなブロンドの事務嬢が、 お昼のかわりにあたまをおとしただけのおお きなにしんを一尾なまのままぺろりとのみこ んで、 白身魚のフライとフレンチポテトをおやつ に抱えてかえっていった 宿の主人は、それをゆびさして 「桃・色・ペリカン!」と指摘した処、通り の一角が、若い青年達の声で爆笑になった 主人は、少年達といると、いつも、たのし そうだった ある日、時間までアンドレが溜まり場で、 これでもかこれでもかと写真に満ち溢れてい た植物図鑑をながめていた 野菜や有用作物のページを眺めていたとき、 美しいが野趣あふれる小さな花のページにさ しかかった たばこの、はなだね 背後にインディゴが立っていた あめ色の木の椅子のせもたれに、体重を両 の腕でかけながら、彼はアンドレの肩越しに、 プラチナ色の頭部を図鑑に、突き出した この本は、ドイツ人の几帳面さ独特、あふ れかえる図版以上に、詳細な理論と解説が載 っている本であった たばこの項目には、人為選択を圧力とする、 作物のうけみながらもの、進化の解説がかか れていた たばこと小麦の遺伝因子の混合と重複の理 論は、興味深い他の例として、東洋人が作出 した両生類の人工新種を紹介していた 作物として、収量の多い系統を、選抜する と、自然に、遺伝子も細胞も倍加した系統を 選ぶことになり、これらは、生殖において、 縁の遠い遺伝子を受け入れやすくなる系統と なる 一万年前の中東の田圃から、大型種の穀物 をあつめていた農耕の歴史は、自然条件では まずありえない縁の遠いしかし、倍化体同士 の安定雑種が成立しやすい環境がととのって いたのであろう、とその書籍は結んでいた たばこは、もちろん新大陸でその品種が成 立していたが、それがインディアンの栽培の 歴史にまでさかのぼるかどうかはわからなか った おどろくべきことに、それが動物でも可能 であることが、その本では写真としてしめさ れていた ただ、倍化体現象が安定するのは、さかな と両生類までで、高等哺乳類では未知数であ るとかかれていた アンドレは、この著者の広範な知識とその 連想のウィットに舌を巻き、じぶんの直腸で 稼いだギルダーを惜しげもなくさしだしたの である 薔薇の項目には中国薔薇と欧州薔薇の複雑 な交配の系統樹がえがかれていた 一部の薔薇の濃厚な香りは、やはりお茶の 国からきたものなのだ 「春品種が、シルベストリス、 秋品種が、タバクム…」 人の名だね むかいにすわっていたカーマインが言葉を はさんだ この日は、かれは紅茶だけを飲んでいた たぶん、「シルベスターさん」が発見した のかもしれない と返したインディゴに、 「かもしれない? じゃ、ほんとうのこと はどうなのさ!!めうえの人間は、みんなそ うさ!! 自分じゃ断言することが、自分できめたこ とをひとからとやかくいわれるのがいやだか ら、いつも、いつも、どたんばで「かもしれ ない」「そんなこといっていない」って、い つもいつも逃げ切るんだ、ずるいよ、! …ごめん」 いや、とインディゴが言った 「…なにかあったのか」 なんでもないよ、また、お客さんにふられ ちゃっただけ ぼくもばかだよねえ、からだをかさねてる と、いつも情がうつってきちゃうんだ * アントワープの中心からすこし外れた問屋 の主人が外に作った息子が「カーマイン」だ った 父を知らない息子が、なかば家出同然にこ の店に寄宿していた アンドレよりもあたまひとつ小さくて、し かし髪の質はアンドレとおなじ黒い細い髪の 毛だった 余談だが、店の主人は亜麻色の毛があまり 好きではなかった いろいろと世間から余計な情報が集まって くる主人のその、職業柄、 アメリカ人をあまり好きではないのがわか ってきた 新大陸の人々が、メインストリームのなか で、保守的に遺伝的混合されると、その髪は、 主人が嫌うジンジャー・ヘアレッドになるの である 彼にとって亜麻色の髪の青年は、新大陸の 移民四世の響きを持っていた 四世といえば事実上移民ではないよねえ つまり保守的になりつつあるアメリカその ものがときどき旅行者としてライン川にも来 るのである 保守的だから話も面白くないし、甘やかさ れているから人生を乗り越えた あるいは乗り越えようとする「肉体の締ま り」もないしねえ 表現が、下品だとその場で飯を食いながら、 ワインを飲んでいた色子達は内心毒ずいた …気持をいつも込めていないと、からだの 締まりも悪くなるんだよ ふにゃふにゃ顔はからだの味もよくないん だって、お客さんは、みんな知っているんだ って あんたたちも、気をつけなさい 飼いならされた羊、とまでひどく酔いの廻 った主人が言った 「羊のXXXは、がーばがば」 ああ、聞いてしまった、皆が内心後悔した 耳をふさぎそこねてしまったことを そんな調子で、この法律すれすれの暮らし も一面では、楽しく過ぎていったが、 それはつねに痛みを伴う縦糸をその織物の 糸の一部としてもっている種の物だった カーマインの捜索願を、妾でもあった彼の 母親と、こちらの宿のわが主人が話し合って、 警察に届け出たのは かれが無断で帰って来なくなってから、二 週間後のことだった 星霜が過ぎ、ある日、アンドレがインディ ゴと店の上の事務所で紅茶を飲んでいたとき に、警察から電話があった 主人は飲食店組合の会合でるすだった え 受話器を置いた カーマインが「発見」されたらしい 僕がいうと、声色を察したインディゴが眉 を寄せた すがたを見せなくなって一年近くが立って いた 「ドイツ側の針葉樹の「黒い森」のなかで、 白骨化していたそうだ」 中年男性の死体の直ぐ近くに、すこしある いてこときれたであろう程度の距離でカーマ インだった死骸が野犬にくい散らされて散ら ばっていた やわらかい部分がほとんど残っていなかっ たので事件としての操作は死体からは難しか ったが、どうも生きたままおたがいに頚動脈 を切ってそれが致命傷になったらしい 血痕は上半身の着衣から大量に反応が認め られた 葬式には、親類の手前、主人は出るのを差 し控えた インディゴだけが、いわば「友人代表」と して 黒いスーツを着てでていった しゃくりあげる母親から、ののしられたそ うだ どんなことをいわれたかどうかは想像でき るのであえてきかなかった …こたえたよ 非番にしてもらい、店に帰ってきたインデ ィゴは、つかれたようすでそういった 自分勝手に理由付けしても、結局自分たち がやっていることなんてあまえたことなのか もしれないな ちら、と主人のほうを見て すみません と訂正した いいんだよ 主人は普通のおとなの声で言 った 本当はわたしが行くべきだったんだ つかれたかね ええ、まあ、期間まで店は続けますんで安 心してください そうか、すまん本当に 主人はむこうを向いてしまった 僕は、それから二年ここに世話になった ---------------------------------------- --南仏9-- その日は、夜半過ぎまで、枕談義をして過 ごすことになった トニが何でも聞きたがったからだ 別に失うことなど何にもないし、自分の生 理的にとって必要なことで、それがもしうわ さの種になるのだとしても、 それはたとえば仕事の誠実さの信用をそこ なうこととはまた違う次元の話だったからだ ただ、おたがいに生理的に必要な人間とし ての醜悪を、反則としてのジョーカーとして 使うような、裏街道にはしばしばいる山師共 のようなことはアンドレは、絶対にやりたく はなかった それはアンドレにとって、職人としても、 性的な、変態としてもの、せめてもの矜持で あった だから、金は取らない ---------------------------------------- --北海12-- うまそうだな インディゴがまかないを主人のもとにとど けにきていた …これだと、ワインは赤、ですかね そうだな…、 宿の主人はすこし考えた、 大衆料理ですから、ふつうに甘いわかいの がいいですか いや、せっかく君がいるんだからいい酒を あけよう、そこの右の白いラベルがいいかな、 飲むだろ インディゴ? …し・ぶくて、にがい十二年、と。 オイスターソースの味じゃかわいそうじゃ ないですかね… 壁のボトルをとって、もどってきたインデ ィゴにグラスを手渡しながら、主人はそっと インディゴのわかいパンタロンの尻をだきよ せた インディゴの尻をかるくなでながら、マス ターは自分のグラスを小さいテーブルの布の 上に置いた マスターは、インディゴを自分のひざのう えにみちびきながら、自身はテーブルの前の 黒檀の、椅子にすわった …よいにおいがするな コロンを変えたかね マスターはインディ ゴのうなじの後れ毛に顔をうずめながら、つ ぶやいた しばらく、抱いてあげてないな… …もよおしたら、いつでもよんでください… 笑って、インディゴは緩やかに主人のひざ からたちあがると、料理をとりわけはじめた きょうは、あと二時間で「店」ですから、 からだのうちがわをよごすのはまずい、です から。 インディゴはほんとうは「業務」のまえに はあまり食事をとらないのだったが、主人が 望むときには、そのおそい朝食には同席した 業務の連絡の色彩もあった うむ、残念だ 格式ばった返事の場違いさに、ふたりは思 わず笑ってしまった 主人はわかいアンドレが作った中華料理を やはり若いワインで流し込みはじめた 腕を上げた、というのはちがうんだったな そうですね インディゴが応対した、 やればれるほど工夫する場所が見つかる、 味がうまくなるのは、あとからついてくる結 果だ、といっていましたが あの子は、不思議な子だね 主人がいった ひょろひょろしているのに、妙に力があっ て。ああいうのをばねの利いたからだ、とい うんだろうが… うん、うまい おおきな中華なべを軽々と片手で転がして いるのをみると、はじめてはだかにむいたと き、不思議に想った広い背中の理由がわかっ たような気がしたよ …お客さんにも、人気ですから 多少やきもちがまざった声音に自身では気 づかず、インディゴはかえした 主人は、内心、おやおや、とおもった 写真をおいたほうがいいかどうかは、聞い てくれたかね それは… 聞いたんじゃないのか 聞きましたけどね、みな乗り気じゃないよ うでした 正直、死んだ仲間にはもうしわけないけれ ども、そのような辛気臭いものを「溜まり場」 におくことは士気にもかかわる、なんてこと を言う奴もいましたよ …そうかも、しれないな ふん、と息をつき 主人はナプキンでひげ と口をふいた 薄情、というのは筋違いなんだろうな 男の子がそういういきものであるのは、男 の子が好きなわたしには、よくわかる ただ、その薄情さがそれを言う自分自身に も適用されなければ、それは幼稚なわがまま にすぎないんだがね インディゴは、ときどきこうやって主人と ふたりで食事をとったりすることに、多少後 輩たちが陰でやっかみをいっていることを知 っていた 「バーミリオン」もいっていたが、ここの 色子にかぎらないけれども、じぶんがなにに むいているかという意味でじぶんを知らず、 またその延長線上として漠然とでも未来の目 印をもっていない子供は、多いのかもしれな い うちこむものがないから、圧や文句がよこ から漏れるんだ、ともアンドレはいっていた 複雑で未整理なことに、それと同時にかれ らは事実上班長でもあるインディゴに気持ち の意味でもすがっていた 普通の家庭にうまれてかつ愛されたがゆえ の前向きならば、主人にはもうしわけないが こんなところにはいないだろう 苦しみと格闘していないかぎり、小狡くて 貧乏くさい「フタルシアニン」はだれのここ ろにも、しのびこむ。 …そうですね、そこまで深く考えてはいな いみたいです、みな、若いですから ところで、提携先の大学のことだけれど、 アメリカとイギリスの友人が、どこでなんの 研究をしているかそれぞれ返事を返しはじめ ているよ 今日までに三通かえってきた、あとでめを とおすがいい …ありがとうございます、なにからなにまで フランスは、嫌なんだっけ …いやですね、 インディゴは苦い笑みをかえした 「バーミリオン」は、どうしてる これをつくるときも、ぶつぶついっていま したよ。みんな若いんで、大味でも量を要求 されるから、じぶんの腕が全然研鑚にならな いって、ぼやいていましたからね 手の掛かる煮込み料理でもやりたいってい っていましたよ …そうじゃなくて、きみたちはいっしょに ならないのか インディゴは、ふと、さみしそうな顔をし た 彼は、野菜がいっぱいとれるあたたかい地 方にいってみたいと言っています ---------------------------------------- --故郷2-- 父親が、なぜ家族を殴りつづけていたのか はアンドレはおとなになって、社会の種々の 弱さにつけこむ誘惑の種類を身近なものとし てその存在を知るようになって、 部分的には例えば映画の物語のエピソード のような小道具としては、理解できるように なっていったことは、 記憶の痛みからのとおい旅の道程を示して いるのかもしれない 合成麻薬や、アンフェタミンは、作用が強 い反面、それからさめたときの虚脱が、しば しば耐えがたい不安定をまねくことは、どう もアルコールの比ではないらしい スラムに住んでいたときの、生活が崩壊し ていく隣人を横目で見ながら、経験の蓄積で はなく物質にすがる態度そのものが広義の人 生の借金にいたる過程を、 アンドレは彼らの後ろから見ていた 不幸は連鎖する アンドレの父親は、さらにその親から、社 会の混乱期でもあったその時代、十分な愛情 を受けることなく、放り出されるように、下 町に捨てられた 充分な教育や職業訓練をうけることなく、 低賃金の尊敬されない、なおかつ不安定な雇 用の労働を続けていては、酒に手を出しても それを非難することはできないだろう 尊敬されない人生の酒は、ほどなく覚醒剤 に変わった 人生を肯定してくれる薬の効果の幕が切れ るとき、 そこに待っている夜は、反動としての、強 烈な空虚と疎外感であり、 そして自信も技能も実績もない惰性の蓄積 は、食事も家にない貧困と空腹とともに、重 苦しい自己嫌悪となって、 それを払いのけようと、父は必死だったの かもしれない 以下は、アンドレの想像であるが、 父は、自己嫌悪を払いのけるために、家族 が自分を軽蔑しているという観念を作り :これはある程度は本当だった毎日のように 暴力をふるうひとをどうして尊敬できよう: 肥大させ、 それを徹底的に追い払うことによって、一 緒にみづからのうちにもある自己嫌悪をも、 廃棄洗浄できると願ったのかもしれない もちろん、そんな魔法のようなことができ るはずもないが 母は、いつか夫婦生活を嫌うようになった もっとも抵抗すれば殴られるので、いどまれ れば拒否することはできないが、 父親のほうも、食費を稼ぐためにやつれて いく三十過ぎのとうのたった情熱的ではない 女に気持ちは動かなくなっていった 父親は、日に日に可憐になっていく、手足 の細い少年をときどきまぶしく見詰めるよう になっていた さすがに、我が子であり、同性でもある息 子に対しては、しらふでは自制がかかってい たが ある夜、ひどく酔って息子を殴っていたと きに、張られて半身を崩し、半そでのシャツ の襟から覗く可憐な首筋に、しばらく溜まっ ていた男性の欲望が こいつで、ためしてみるか とささやかな抑制のかんぬきをた折ってし まった アンドレはまだ十歳だった 学のない、かれの父親が、男性同士の行為 に知識があるわけでもなく、しごき上げただ けのかわききった欲望を、 両の大臀筋を左右にむりやり引き広げただ けの性急な行為で むりやり息子の骨盤におしこんだ アンドレは、絶叫を連続させ、かれは自分 のうまれてから十年しか経っていない肛門が 壊れたのを知った 血が流れるのがとまらない十歳の尻を、彼 の父はとてもよい鉱脈を掘り当てたような満 足感で、その夜はなんどもなんども抱え込ん だ 母親は、次の間に引っ込んだきり姿を見せ なかった 激痛に学校をしばらく休んだのを問いただ す連絡に、初等学校へははしか、ということ になっていたらしい 時々の行為にも関わらず皮肉なことに、粘 膜が治癒すると少年の腰は、回復を見せた 父親も息子の後ろの門に、なにかをたっぷ りと塗れば、行為がスムーズになることを学 んだ 皮肉なことに、この頃から彼は入浴の回数 が増え清潔な傾向さえ見せ始めた この頃の唯一の肯定的な出来事だった 母親は光熱費を稼いでいるのはわたしだと アンドレにいやみを言うようになったが もちろん、父は、浴室でアンドレに行為を させるために、風呂に入るのである 最初こそこの世のものとは思えない激痛に 床から起き上がることはできなかったが、 直ぐに、直腸も、学習にも柔軟性のある子 供の適応力は、その好意に慣れるばかりか、 積極的にそのなかに快楽の宝石をも探し当て てしまったのである いたいたしい子供は、じぶんのからだが、 家族和合のかすがいになればと、必死で想っ ていた まだ、背の低いきゃしゃな肩は、父の腰の 上で、さらさらの黒髪を乱しながら、両腕を シーツに後ろに突っ張り、 父に腰を送り、精一杯の愛情を示そうとし ていた …父が客を部屋に連れてくるまでは。 そうだね、それがいいわね 珍しく母親と話しているとおもった午後、 見知らぬ壮年の作業着の男が部屋に入ってき て、 おもてから鍵を掛けられた からだは慣れていたが、精神を打ちのめさ れた彼は、母親が言った言葉が信じられなか った あんたも、食ってばかりではなくて、 稼いでわたし達の苦労をすこしは分かち合 ってくれなきゃこまるんだよ 蒼白になって、ふらふらと部屋をで、 とぼとぼとおおきな河のほとりをあるいて いるアンドレは、 うすぐらい河川敷のちいさな蛍光灯が照ら すちいさなベンチに 崩れるように、たどりついた。 街灯の鉄柱の、ひだりのてのひらにつたわ る、つめたさは、冬が近いことをおしえてい た 河を波を立てて、ゆく、牽引ボートが街の 明かりを水面に破壊しながらとおくをすすん でいるのをみながら、ぼんやりと、 いま、水は冷たいかな… とぼんやりと想っていた 夜の闇が、まるで海のようだった 黒い河面が、綾めくさざなみを、街灯の光 で反射し、それが、星の夜空と、溶け込んで、 肌寒い宇宙となっていた 晩秋の冷たい風がはしりぬけ、 かわいて丸まった木の葉の死骸を、さむい 宇宙のかなたへとはこんでいった みなもが、宇宙のすべてに、見えた アンドレにとって、夜の不幸こそが真実で きらびやかな広告や約束は、みな嘘であった アンドレは、河のほとりまであるいていっ て、淡水のみずぎわで、たたずんでいた …おそろしくて、しゃがめなかった てのひらで、水のつめたさをたしかめてし まったら、 たぶん、くつしたを脱ぎ、みぎあしではな く、ひだりあしから、ふみだして、しまうだ ろう 十一月の下旬の郊外はかなり、肌寒い 水は、おそらく、希望どおりに、もっと、 冷たいだろう アンドレは、つめたい暴力が、ふくの襟口 からながれこむ想像をして、 心臓がはねる、のを感じた …すべては、冗談に、おもえた では、あの部屋での、毎日もまた、冗談な のだろうか 死にたくない… ふと、若いねがいが、顔を出した ちいさな蛍光灯の下の、ペンキのはげかけ たベンチにふりかえって、寒い風のなかよろ よろとたどりつき、 十一歳になったばかりの少年は、座りこん だ膝の上に 今晩初めて、ぽろぽろ、しずくをおとしは じめた いちどながれはじめると、とまらなかった くっくっくっ、くっくっくっ 小学生は、笑いの顔で嗚咽を漏らし始めた なんで、じぶんはあのひとたちのしたにう まれたんだろう クラスには、愛情に包まれてかよってくる 子もいるというのに 郊外の新興地は、地域同士がそ知らぬ顔を して暮らしている 若い先生達は、めんどうを嫌い、事件が起 こるまでそれに気がつかないふりをする 一度雪の中にうめられたときは、さすがに 役所が事件性のにおいを感じ取り、一ヶ月ほ ど公立宿泊施設から学校へ行ったが、そこに だってずっといられるわけじゃない 施設から家に戻ったとき、母親は顔をみる なり、また食費が掛かるねえ、とあきらめた ような顔で言った まあ、あんたがいてくれたほうが、殴られ るのは半分ですむからいいんだけれどね あんた、せいぜいあいつに殴られておくれ よ、あんたごくつぶしなんだからさあ 多分、じぶんは隔世遺伝なんだ、と理科の 授業の知識で想った あったこともない親戚のだれかに、じぶん は似ているんだろうか アンドレは、十四歳まで、家の狭い部屋で、 ときどき父が連れてくる客の相手をして過ご した 父親自身の欲望も処理しなければならなか ったから、 週に三、四回は、おとなの男のからだの下 で眠った アンドレが、おとなの男の肌のにおいを、 故郷の匂いとして、なじんでいったのは多分 この頃に違いない アンドレが中学三年生の十四歳のとき、 アンドレがからだで稼いだ薬の過量使用で、 あの父が心臓発作をおこした 金はないので、火葬したあと、公共の納骨 堂に収めた 黒っぽい服を着た親子は、気の抜けた、複 雑な表情をしていた 自分には、兄がいたらしいことを、父母の 会話の端々で憶測することはあったが、それ をほり下げることはアンドレはいままでしな かった そんなことより、早くおとなになって、こ の坩堝からぬけ出ることが先決だったからだ 母親はさすがに露骨に、アンドレに客をと るようには言わなかったが 実質アンドレが客で稼がないようになると、 家に帰る時間が次第に遅くなっていった そのうち、外泊をするようになり、その間 隔の日数がひらくようになり、 そのうち、完全にかえってこなくなったの は父親が発作を起こして二ヵ月後だった 長いものなのか、短いものなのかは、アン ドレにはわからなかった 彼からみれば祖父にあたる父親の保険金で 物質的にはちやほやされてそだったアンドレ の母親は、夢みて都会に出てきて、 保険のためにとワーゲンやシトロエンがと まっている駐車場の砂利の小石を これでいいや とパトロンとしてひろったあと、その石に 人生の半分を殴られて過ごす人生を送ること になったのである やんごとなき少女であったママは、自分が 何故汚い都会の下働きをしなければならなく なったのかは、永遠に理解できないに違いな い 彼女は、自分がこの男と別れられないのは、 アンドレがいるからだと想っていたようであ る 彼女はアンドレというかすがいが、さびて 朽ちることを、ねがっていた その意味では、ちいさな客間で、アンドレ がおさない苦しみに満ちたうめきを繰り返す のを好ましく想っていた できれば気が狂いでもして、死ぬ前に、せ いぜい稼いでもらえば自分の負担も軽く、な ると アンドレは、悪夢から解放された反面、自 分ひとりで生きていかなければならなくなっ たのだった アンドレの事情は、中学校の担当の教諭は 知ってはいた ただ、アンドレは不仲と暴力は話していた が、彼が、自宅で客を取らされていることは 伝えてはいなかった 父親がおなじ地区で子供を持っている人工 :にんくをさけていたのは、 アンドレに対する配慮、というよりも、む しろ商売が継続できるようにするやむをえな い配慮だったろう ただ、口さがない人間のつね、地区で知っ ている人は知ってはいた そして公務員である教師の心得とは、余計 なことに首を突っ込まないことである 担任は、悪人ではなかったが、そのような わけで実態の詳細など知っているわけではな かった アンドレも、自分の境遇をうったえても、 子供のうちは自分の立場がそう劇的にかわる ことがないことぐらいよく知っていた 子供のうちに、世間の現実的な冷たさを知 ってしまったことは、アンドレにとって 失敗しないための賢明さと、 一切の愛を求めることなく生きていく孤独 をも彼に強いることになったのである 教師は、少なくとも自分が担当する教科の 内側でなら、子供に関心をもつことが処世術 的には許されているので、 担任は、彼に学業を続けることをすすめた かれの成績は、彼が恥かきっ子でない限り、 アンドレが隔世遺伝であることを示していた ようだった ただ、アンドレの父が無学だったからとい って、彼が生来の感性として、朴念仁であっ たなんてことはほんとうはいまとなっては誰 にもわからないのだが 彼は落ち着かない家に育ったので、一切の 宿題ができなかった それにもかかわらず、直観力の片鱗がいく つかの、試験にも表れていて、ほかの教科の 教師の評価もそのような記載をカードに記述 をしていた かれはのろわれた部屋を引き払い、 パリのスラムのごく狭い部屋に移り、自給 生活をはじめながら 都会の夜間高校の講座を受けることとなっ た ---------------------------------------- --夜学1-- そこでおおげさにいえば恩師に出会ったの である アンドレは、物理よりも化け学が好きな子 供だった 試薬や錯体のあざやかな色に対する興味は、 うつくしい花々に対する色彩に対する興味と おなじだった 博覧強記的に花ばなの名前を覚えていて、 そしておなじおそらく回路ですきとおった深 い青の硫酸銅の名前を覚え始めていた 彼にとって、硫酸銅の青は、まだ父母があ らそっていなかった遠い昔の夏の記憶の浜辺 のソーダ水とおなじだったのである 繊細さをまじえて、急速に知識を色彩と香 りをまじえて吸収するかれの周りには、いつ のまにか看護士志望の少女がいるようになっ た つまり、気が付かないうちに、かれは、栄 養学、医学を目指す若者とおなじカリキュラ ムをとっていたのである もし、この時点で、少女達に初恋をいだく ことができれば、またアンドレの人生も、ち がったものとなっていたことだろう しかし、幸福のカートリッジがおおきく欠 けてしまっていたアンドレは、その代償を必 死の好奇心で補填するのに、必死だった アンドレは、事実上八歳程度でとまってい るじぶんのいくつかの部分を、いそいで促成 で栽培する必要があったのである 当時の彼が、感じていたことを、おとなの 文法で表現するとすれば、いわば、そういう ことであった かれが、恋を人生のとなりにおきたいと、 おもうようになったのは、この夜学の卒業後、 おぼろげながらそろそろじぶんという人間が 把握できるようになってからである その意味では、「インディゴ」との出会い は、彼にとって初恋だったのかもしれなかっ た 理学をおしえる初老の教師は、ありふれた 苗字をもっていた 彼はアンドレの急速な好奇心を知り、しば しば教務室によびつけて しかし暇ではない雑務の合間に、お茶だけ をいれてアンドレをほっぽって置いた 教務室の一角には、普通に買えばかなり高 価な図版入りの専門書が集積されている書棚 が複数もあった アンドレは、毎日小一時間、先生の部屋の 茶色いソファに根ころがりながら 紅茶を飲みながら好奇心の赴くままに、高 価な専門書に没頭するのだった たぶん、彼にとって、それははじめてふれ る人間らしい愛だったのかもしれない 相手の資質を洞察し、それを導くというこ とを打算抜きに行う人格があるのを知って、 彼は驚き、 専門書というかたちの好意に、うまれては じめて甘えた。 先生が雑談で教えた数多いことを総合する と、それは、交配と発展、ということになる のだろうか ゲーテは、青年は実験という経験を行うた めに生まれてくるのである、ということを持 ち出し、 そのためには心身ともに健康で無理をしな い生活が重要だとも言った その会話はしばしば禅問答のようでとらえ どころがわからないことも多かったが 今日がなければ明日はなく、限界を超えた 破壊を避けるために適正とはなにかというこ とをつねに考え、高尚な観念よりも衣食住が 大事であること ということもいった ギリシャ人かインド人のようなことを言う 先生は高等学校の教師でありながら、生物学 で博士号をもっていた アンドレにとっての料理のそもそもは、 ともかく、ちゃんとたべなさいファスト・ フードは駄目なんだぞ と途中までいっしょの学校からの帰り道で の雑談と忠告で、アンドレは自炊に興味をも ったに過ぎなかった かれは給仕の安い給料で生活して 仕事が非番で昼間があいているとき、朝寝 に一日を費やすのでなければかれは市の図書 館かギムナジウムに行った 図書館は、まだ餓えている知識の欲を満た すため、 ギムナジウムは記憶を補強するためであっ た 十五歳のからだが、黒い水泳パンツをはい て、冷たくはない水に沈むとき、 肌に広がる心地よいナルシシズムに、幸福 だったころの懐かしい記憶を緊縛のようにか らめるのであった 夏の、穏やかな海で、沖の小島までいつか およいでいってみたいとほのかに想っていた あこがれは 成長することなく、虐待を受ける少年時代 を迎えることになった 暴力が遠のき、とりあえず、自由だけは自 由になったいま、 アンドレは、あの幸福感の希求のすがたと はなんであったのかということと いまこれから願うべき幸福とはなんである べきすがたなのかということを、 くりかえしくりかえし折り返しがくりかえ されるしずかなクロールの淡い酸欠の陶酔の なかに、 懐かしさと問いの、エンドレステープとし て再生するのであった あたたかい水は、しかし、庇護でしかない 距離が水の能力として、のびていっても、 しずかないらだちが自分のなかに蓄積してい くことがそのときはいま、アンドレにはうれ しかった その純粋な想いとは別に、 肉のつかない体質のただほそいだけの少年 の、一対の魚のフィレの肉の身に、 しなやかなばねの力が蓄積されつつあった ことに、そのときのアンドレは気が付いてい なかった その、肉体的なしなやかな、不思議なばね は、はずむような微分方程式として、学習す る生きたプログラムであるアンドレ自身の精 神にも反響をかえし アンドレ自身の人格にも、取り込まれてい った それはのちに、いろんな意味での肉体の労 働をするようになってから驚きとともに再発 見するのである そのときはただ、たぶん本人たちは自分は 幸福であると信じている幸福に、無邪気にふ ざけているたぶん年齢的には、同輩の、たぶ ん日中制の少年たちの 水中で体だけはこちらをむいている、白い 胸のうえにうかぶ一対の赤い押しボタンに、 みとれていただけだった かんばせで水をかぶり、からだで水をまえ にすすむとき、 アンドレは過去のことがなかったとしても、 自分がたぶん同性愛者として目覚めていった であろうことは たぶん間違いないのだろうなとは、感じて いた 期待に震える、という意味ではたぶんこの 時期がアンドレにとってはもっとも幸福な一 時期だったに相違ない ただ、性とは、人生が一瞬でも重なること だと、 それを十代ながら信じていたアンドレは、 とりあえず水の距離をのばすこと以外に、今 はけっして手を触れてはいけないのだと、う いういしい誠実さで、感じていた 誠実に対して誠実であることこそが、かぎ りない善意であることを夢見る彼は、まさし く、少女だった その時代、更衣の部屋でだれとも目が合わ なかったことは、アンドレにとって、幸運だ った 人生が始まっていない、まだ蒼い時代に、 純粋な深い快楽を知ってしまったら、確かに すべての努力を開始することができなかった だろう ギムナジウムは不思議な空間だった あるいは、水を味わいにきている男性達は、 みづからの滲み出す欲望をもてあましつつも、 おたがいの人生をあえて潜在的に尊重する からこそ、あえて顔を上げずに 水にむかい、そしてそそくさと帰るべきと ころに帰るのだ 更衣室には、それぞれの地平線に遠く離れ た潜在的な自慰のにおいがする なまえもしらない、だれかの裸体をおもい だしながらの。 プールの水がチェレンコフ光のように人魂 の蒼さで輝くのは、 三重芳香単一炭素振動青が、殺菌をかねて 投入されているからである 偶然なのか意図してつくられたのか、彼は 知らなかったが、その青は、青い状態の青い 花の、その青の仕組みで、蒼をつくる。 蒼い、光の粒子は、蒼い光が実はとても熱 く鉄を焼ききるように、 不安と不安定から、一気に射精のように崩 壊する強いエネルギーでないと、つくられる ことはできない メチレン青の、中心にあるただひとつの炭 素は、周囲の分子の保守的な官僚主義により、 拷問を受けていた それが、若い少年のとき、蒼い水の美しさ は、悪徳の極北にあることになるのだ 青い光というものは、新鮮な遺伝子が生き る喜びにうごめきはじめた活性の光で それは、狡猾な老人にとっては、ひどく絶 妙な、くさびのように体中の細胞に効く、グ ロテスクな海産物のミネラルのような、回春 の妙薬であった 舌なめずりをされ、おおきな濡れた赤い舌 のベッドのうえで、老人の悪臭漂う唾液のガ ウンを着て、呆然と夢うつつになっていると き、 エキスを消化摂取するために、入れ歯の奥 歯で絶頂にこなごなに噛み砕かれても、 そのときは、嚥下されていて、たぶん、も う、遅い ---------------------------------------- --北海13-- ナトリウムのD、という黄色い光は プリズムを通すと、そこだけが不気味なほど きつねびのようにゆらゆらと強烈なことに皆、 おどろくだろう 低圧ナトリウム灯は、スリップしやすい凍結 した道や橋の上で、交通事故を予防するために 黒や影を網膜にたいしてきわだたせるために、 多用されていた 十一番目の、手のひらの愛撫にも簡単にもえ あがる空気中ではとても不安定なおさないかる い金属の やはり十一番目の不安定な軌道の粒子は、 簡単に成仏し、また簡単にかなたから誕生と して捉えられるので、 その涅槃の繰り返しが、つよいDの光なので ある Dとは、死を意味する黄色なのかもしれない 愛されるひなぎくをおもいえがき、かれに黄 色の名前を与えた主人は、いま、うらぎられよ うと、していた 橋脚の歩道側、雪の道程をあるいてきた少年 は、周囲にだれもいないことをみまわし、さい ごの誇りを実行しようとしていた 厚い、ジャケットを脱ぎ、 栗色の革靴を脱いで、くつしたをもぬいで、 素足になった 雪の冷たさが、彼に嘘をつかなかった かれは、客が与えてくれた、プリーツの多用 されたとても繊細な絹のブラウスをまだつよい 港の北風にはためかせながら、自分をふるいお こすように金髪のかんばせを上げた 橋の欄干に素足であがり、痛いほど冷たい鉄 を感じながら、水平線に遠くかがやく赤い光の 群れをながめた また、風が流れ、金髪とブラウスのそではは ためいた …かならずしも、悪い人生ではなかった 最後に、皆に愛され、いままでにはないほど の奢侈をもたのしかった でも、と彼はおもった 自分には、この只今人生のこの一瞬にしか保 持されていない 若さしか愛されることに対して返すことが出 来ない、 若さを失ったら、じぶんにはなにもない 先輩達に、ある蓄積に、それに対するうらや ましさと嫉妬を感じるのが、せめてあと十年早 ければよかったのに、とりりしさだけが誇りと 自覚している黄色い雛菊は、おもった 先輩達は、自然や世界から愛されているよう に雛菊には見えた …それは、なぜかまでは、雛菊にはわかって いた 先輩達は、深く世界に対する愛と関心がある からこそ、 世界が彼らを愛し返すのである …それも、うらやむほど、深く。 たとえば、二十年後の自分なんかどうだろう、 とかれはぞっとした 色町にいる、無能なくせにやたら声の甲高い、 としとったよぼよぼのおかまになるのだろうか そんなのは、たえられない みんなに会えて、よかった かれは、心底、そうおもった …ありがとう、はいえるけれども、 ごめんなさいはいえないな ひるむので、したをみずに彼はドッグの赤い ひかりにむかうように、 飛んだ。 * 冬ごもりに失敗した小動物が、雪の中で人 知れず、氷の化石となっていきつつあるころ、 アンドレは主人から、店を閉める、と聞か された もちろん、例の業務だけの話で、喫茶店の 店員は一部を除いて存在も知らない、特殊な 業務が閉じることは、雇用の面から言っても 無縁だった ただ、「裏グリーク」の店だけは、物理的 にたたみ、お茶を出している部門の店員は別 のブロックでの新しい店舗に移すことになっ た 「雛菊」が自殺して、精神的にこたえてい たのは知っていたが 店を閉めるということには、アンドレは なんで、急に とそのことをつたえてきたインディゴに、 反射的にききかえした 前から考えてきたんだが、ちょうどいい機 会だとおもったんでね ふざけたいいまわしでない場合、主人は品 のいい老紳士になるのだった これはあくまでわたしにとっての商売じゃ ない 地区の顔役におさめる分もあるんで、正直 苦しいんだが、経費を引いた分の「あがり」 はみんなきみたちにわたしてきたつもりだ それでも、こんなことがたびたびあると、 なんのためにやっているかわからなくなるん でね 僕は、金を稼げる手段を提供してきたつも りだったんだが そうであってほしいと、ねがってつけた名 前だったんだ、と主人はいった いい名前だった、とアンドレはおもってい たが、発音がながいラテン語の名前だったの で、皆はその金髪のやや背が低い少年のこと を愛情を込めて、雛菊のクリスと呼んでいた 花の名前か、それが含んでいる色の名前か、 迷ったのでけれども結局花のなまえにした、 と主人は言っていた アンドレは、彼を折りたたみのデリンジャ ー銃のようにおりまげて、 からだをつないだゆきのひの午後のことを おもいだした 透明な蛍光でまぶしくかがやく黄金の色彩 の名前をもらった少年は 河口に掛かる橋のうえから、厳冬期の水に 身を投げていた 死体があがったから、自殺がわかったが、 そうでなければ、永遠に行方不明のままだっ た 精神的に不安定な少年の時期に、深い快楽 と、持ちつけない大金を持ってはいけないの かねえ 主人は表情が老け込み、孫を想うような表 情になった 最初に僕が愛した「ルージュ」を失ったと き、 このようなことは繰り返されるような直感 はあったんだが、ああ、自分はもう年をとっ たのかもしれない、若さがときどきこうやっ てむこうに旅立ってしまうことにたえられな くなってきているんだ これは、ばちだな もともと不安定だった「雛菊」、はあると き突然非合法の医者に行って、自らを去勢し てしまった そうして、性別を越境することで、その異 常さのなかに自分の存在の意味を確保しよう としていたのだろうか 彼の性格にはけして女性的なところはなか った 永遠の、すきとおる肌のアンドロギュヌス にでもなりたかったのだとしか考えられない 「そんな自分で努力したものでもなく得た城 が、そんなに堅牢に自分を守ってくれるはず がないじゃないか」 つかれた表情で主人はいった もともと、精神的に自信のない不安定さが、 たぶん睾丸を失ったことによる生理精神の不 調もあって、ああいう結論を招いたのだとす れば、 「彼が使った手術代を結果として渡した、 わたしはなんだったのかね」 アンドレは、父親を思い出した 弱い人は、環境や人々との係わり合いがな んであれ、そこから建設をつむぎだすことが できない ふと、隣のインディゴの横顔を見た かれは、だまって主人の話をきいていた 彼がここに来て、そしてとどまる場を提供 し、結果としてここの毒で彼を殺してしまっ たことは、主人としてわたしの責任だ ここは閉める お金が足りなければ、いままでの平均の稼 ぎの三か月分は出そう 本業のほうでの収入で、それくらいの財産 はある でも、そんな急に …今やめなければならない理由があるんだ よ 主人は紅茶でなく、濃い珈琲を飲んでいた まどの雪景色がはげしく紫外線に白かった 新大陸で、悪い病気が始まっている ああ、そういうことかと二人は納得した 「逆転写」のことだ 異性愛の飾り窓の連中などは、まだほとん ど知らないのだが、 自分がアメリカの友人から聞いたところ、 感染率は低いものの、うつったら確実に死ぬ そうだ それも梅毒のように深く静かに何十年もか けて進行するたちのわるさももっている いまのところ、どこから始まったのか、治 療法も皆目わからない 原因の、病原体だけがわかっている ライン川は人間と物流の十字路だ この窓の下を、その病気がひとしれずある いていてもちっとも不思議じゃない こんなことをいうのは、詭弁だということ は充分わかっているつもりだが きみたちを危険にさらしてまで、この道楽 を続ける理由がない きみたちのような少年が、快楽に朦朧とな っているあたまで 客に避妊具をつけてくれなんてことは、そ う毎回毎回いえるもんじゃないだろ …まあ、それなりにたのしかった、きみた ちのような若い生命に囲まれて ただ、かんがえてみると、自分のやってき たことにぞっとするよ 「六丸六」ができてから、この町はにぎわ ってきたもんだが、それも振り返ってみると、 短いあいだだったな ユダヤ人と商売がにぎわう町は、つねにペ ストにおびえるものなのかもしれん 交易が自由の風土をうみ、自由が退廃を生 み、そしてその退廃が、中国からペストを呼 び寄せる それは、事実だ、この事業当事者だったわ たしが言うんだから間違いはない と、主人は自己憐憫を吐いた かなり弱っているらしい …あなたは、ユダヤ人なんですか そうだよ、あまり意味がないことだがね、 ただ、ひとたびペストが始まると、ぼくら のような名目上の異邦人は鬱憤のはけ口とし て、つねに焼き殺されてきたものさ でも、サルバルサンをドイツ人に援助して、 作らせたのも僕たちの資本だったことを忘れ ないで欲しいね ぼくらは、つねに殺されないために必死だ ったよ 戦中内縁だった、ドイツの女と結婚したの はそんなともに苦労してたねぎらい、だった がね 命の危険をかえりみず、彼女が助けてくれ たのは金持ちの僕じゃなく、女心がわかる繊 細さ、だったといっていたな こんなずるい人間もめずらしい、というの にね 奥さん?結婚していたんですか 娘と一緒に、西ベルリンにいるよ そして、 私は、女性のからだに、興味が、ないんだ ホモだって、わかったら、真っ先にポーラン ドだっただろう 残念ながら、直せないところをみると、か なりふかい段階で、この趣味は遺伝子に書き 込まれているのはまちがいないかもしれない、 インディゴ君のほうがくわしいだろうが ホーランド、とポーランドはちがうんだよ、 綴りが、主人は、おどけて、話題をかえよう、 とした そのしぐさは、インディゴのそれに、そっ くりだった アンドレはおもった。 たぶん、じぶんをもふくめて、男色家は繊 細ゆえに周囲に気をつかいすぎるのかもしれ ない しかし、内心で訂正した。 ほかにわれわれになにができるというのだ ---------------------------------------- --北海14-- さいしょはね、 インディゴがはにかんでいた 家を飛び出してきて、食うものもことかく ようになってきたとき、すてばちになってこ の募集に応募してきたのがそもそもの最初だ ったんだ 当時は、どうなってもかまわないとやけに なっていたんだよね、面接のときにもあのマ スターに面と向かってなまいきを言って中指 をもたてて挑発したんだ …利発で、じつは気の強いニールスが、本 気で窮して激昂したとしたら、さぞかしすご い剣幕の態度だったろうと、アンドレは内心 首をすくめた そのときは、マスターはなにも表情を変え なかったけれども そのあとの「適性の検査」で、実は彼が相 当気を悪くしていたのをおもいしらされたよ 三日三晩、さけびつづけたよ、 あの日に、「僕」はうまれたんだ とてもよかった、 死ぬかと想った …最高、だった。 インディゴは、うっとりと、遠い目になっ た 三日間、ゆっくりと時間を掛けて、からだ をほぐされ、 ありとあらゆるところをひっぱられ、どん な客にも、どんな遊びにも対応できるよう、 からだを改造された。 うしろの粘膜をも思いっきり拡張された。 河の途中にある、近代的な耐蝕鋼の円柱と、 コンクリートの、オブジェをかねた橋を、知 っているだろ あの手すりでもある、柱があるよね、 あの太さを、拷問としてねじこまれたんだ ぜ ええ? … ぼくはそのとき、十七歳だったけど、自分 のからだがものすごく、弾性ゴムのようにエ ラスチックにできてることにびっくりしたよ 僕は、じぶんのからだが、人間の限界をた めしていることに、興奮し、じぶんのからだ がほかのひとの人の体とおなじということに、 とても不思議な連帯感をかんじることがで きたのが、新鮮な発見だった …被虐、ということに肯定的な意味をみつ けようとすると、僕はあのあたりの感覚をい つもおもいだす、な しばしば、痛みでもある、強い感覚を確認 することで、自分が確かに存在していること を確認し、 そして、たぶん、 すくなくとも同じ痛みを感じることができ る「肉体」の存在と、 それがたとえおなじ部屋になかったとして も、連帯感を、かんじることができるんだ マゾヒズム、というものは、精神的な、危 険な共産主義にちかい とりしまられても、当然かもしれない ウォルフガングが、変態の遊びをしたいが ために、地下結社でふざけていたのは、本当 かもしれない …たぶん、ぼくらは普遍的に、さみしがり やだけれども、 独りでやるにせよ、誰かに痛めつけてもら うにせよ、 肉体をいためつけることを感じることがで きる限り、僕たちは、じぶんの肉体を通じて、 すくなくとも、孤独ではない これは、たぶん、男性にもある子宮収縮因 子と快感蛋白の作用なのだろうけれど、 その意味では、自分を痛めつける、努力や トレーニングは、たぶんマゾヒズムで、 そして、優れたアスリートや職人の多くは、 たぶん、マゾヒストなんだ おくさんのいる、優れた人が、告白をして、 頭を下げて、外で役割を交換しながら、背徳 の快楽にふけっているはなしをぼくは、 たくさん、知ってるよ わらった それは正確には、その太さを模した、性の 道具だったけど、 最初は、とても痛くて、つらくて、あのマ スターのうでにすがって、奥歯を食いしばり ながら眉間に深いしわを寄せて耐えていたけ れども、 ちからをぬきなさい、だいじょうぶだから、 とやさしくあやされて、 背筋と胸から腰にかけてのひろい範囲のわ き腹をとても繊細に、両手でさすられ、 安心する感覚がこころの水面の水位として、 やさしく、しずかに満ちてきたとき、 ぐいっ、とあっけなくはいっちゃったんだよ …信じられない アンドレは、インディゴの、肉の薄い骨盤 を、黒いパンタロン越しに、まじまじと、み つめた すましていれば、貴族の貴公子でもとおり そうなそのきゃしゃなすらりと手足のながい、 美貌が、夜、そんな変態の行為の、卑猥な姿 勢を取っているなんて、とても想像ができな かった 僕は、ものの一分も、もたず、あのひとの さほどつよくもない愛撫のなかに、はじけて しまったのだけれども、あのひとは、 「よくがんばったね」 と、とてもやさしく、なぐさめてくれた 「…これは、快楽ではないんだ、苦痛を越 えることをともに成し遂げられるかどうか、 という共同の作業、なんだよ 僕は、きみと今夜、それをともにした。 僕自身は、とても、うれしかった ありがとう 今日は、僕とだけでも、いつか将来、たと え性の作業でなくとも、そういう人生の伴侶 が、いつかみつかる、といいね」 とても、やさしかったな あの日以来、マスターは僕にとって恩人に なったんだ、 恋とか愛とかそういう陳腐なことじゃない そんな、てあかのついた、観念じゃない マスターはね、かならずしも、僕らと寝る ことには欲望があるわけじゃないんだ 苦痛にまみれた快楽に、ぼくらのうつくし く細いからだ、が、苦悶にのたうち、打ち震 えているのをみるのがすきなんだってさ まったく、悪趣味だよね インディゴは、しかし、まんざらではなさ そうだった あのひとは、僕らに、自分の若い頃の記憶 をかさねているんだよ、たぶんね たぶん、友達をおおくうしなったのかもし れない。戦時中のことはあまりはなしてはく れないんだ いたみに、まみれたかがやきこそが人生な んだって、とても満足したぼくの髪を、やさ しくなでながら、むねにだきよせてささやく んだぜ、 あのひとにはあたまがあがらないよ。 … 「バーミリオン」も、やってみるかい? インディゴはにやにやしていた いや…わるい、遠慮するよ そうだろうね、そういうとおもった インディゴはくすくすと笑った …おおきいものは、とてもいいんだけどね でも、その分、体温をもつ、生の男性は、 情熱を持ってはげしくうごいてくれるから、 満足としては、おなじぐらいかな ああいうものは、どちらかというと、独り 遊び用だな あんまり頻繁に使うものじゃない だいいち、なれちゃったら、失礼だし ふたりで噴き出した でも、マスターがいってたんだけどさ、絶 対にガラスや瓶をつかっちゃだめなんだって さ あのあたりは、太い動脈が通っているから、 もし万が一のことがあったら、助からないん だって 医者のお客さんの話じゃ、ガラス瓶で楽し んでいて、子宮動脈を切ってしまい、死んじ ゃう女性は結構多いんだって 又聞きだけど あの日から、僕は「サイバネテックス」に 改造されたようなものさ 男性は肉体の八割以上をたぶん精神が占め る。精神が改造されればそれは自動的に人造 人間さ 人工的な手段と、 しばしば恋人でもある、他人の腕にじぶん をゆだねて、 快楽に解放されて、僕は、あの日から真に 自由になれたんだよ あの時点で、マスターが確かに気を悪くし て、意地悪をしたのは一面で事実だったのか もしれないけれども、でも、結果として、あ の経験が無かったら、いい意味で今の自分は 無かったかもしれない 僕は、いろいろとりすました親族同士の駆 け引きのなかで、女性独特のいやらしさをと てもたくさんみてきたんだ お金や、それを生み出す技術企業や才能の 個人に、 …憎んでいるのは本当だから「おんな」と よびすてにしていいよね、憎悪、というのは かえりうちをもかまわないという攻撃への動 機、だから… 彼女達がいかに卑劣な手段を弱者の仮面の したで正当化するのを、害虫害獣をみるよう な視線で内心毎日侮蔑する日常に僕は、 …たえられなくなったんだ 実際、じぶんの実のかあさんは、じつは殺 されたんじゃないか、と、それが自分の中で、 どうでもいいことになるまでずっと、うたが っていた 別に、正直いわゆる男色に、興味も、まし てや自覚もなかった それは、別にいまでもそうなんだ 自分を解放する快楽に、レッテルを貼られ ることは心外だし、 また、そのような「分類される種族」とつ るむつもりもなかったし。 たしかに必要なものかもしれないが、 ユニオンというのはいつも切り込んでいけ ない人々の悲哀がただよっているもんだ、こ んなこといってはいけないが、それは強さや うつくしさに身を焦がすほどのあこがれを感 じる能力の欠損にしか、僕にはおもえない たぶんそれが神話を信じることであり、 また恋というものはつねに破滅や大事なな にかを代償に要求する 努力に労力をそそぎこむことだったその一 種だとおもう 打算が免罪符として愛や恋を語るのは、結 局はそのひとが汚水からはいあがれないこと をしめしているにすぎない アレキサンダーは、絶対に薄汚れた陰間酒 場なんかにはいかなかっただろうしね でも、父の権力と財産だけをめあてに、実 はドライでしかし努力をすることを知らない 女性が、甘く尾をのばす猫撫で声をだしてい るのを毎日みていると、 心としての生きた女性に、悪い免疫ができ てしまったのは、事実だったな 金持ちの家には、こういっていいのかはわ からないけれども 金目当ての客しかこない 僕は、人間を虫けらのようにみることに、 耐えられなくなったんだ いまは自分は、「ケツの穴」で金をかせい でいるけれど、 正直、あの父の会社の金で生活し、同時に 金と甘露にだけよってくる人間の社会のうち のいやしくかたよった画分だけをみなければ ならなかった日常よりは すくなくとも千倍は、しあわせだと、おも う これから、どうなるかは、まったくわから ないけれども マスターに骨抜きにされた三日間は、いい 機会だったんだ もともといろいろ仕込んできた、人間は、 からだをもっと使わなければ損だ、というこ とがわかったよ 確かに、よいセックスはスポーツの一種だ マスターは、「商売の上では」僕のような めったに取れないダイアモンドは、いろいろ なことができなければ逆に意味が無い、と嫌 われて去られる危険を覚悟の上で、いろいろ な快楽のボルトをおもいっきり (ほんとにおもいっきりだったんだよ、すご すぎる快感に、死ぬかも、と朦朧としたもの) ひっぱったんだとあとで言っていたな あの三日間は、マスターにとっても、おお きなばくちだったんだってさ …この仕事はとても楽しかったな また、やりたいなあ 実習年次になるからもちろん無理だけどさ セックスって事後のベッドでの人生が透け て見えるような世間話こそが、セックスなん だってつくづく実感したよ 公務員のおくさんが、欲求不満になる気持 が、ぎゃくに、わかるな それが商売になるかならないかということ はあくまで結果だと想う アンドレは、僕と寝て、いろんなはなしを して、楽しかったかい?僕はそういうことが 大事だと深くおもったな いろんな職業の人と、いろんな出身の人と、 いろんな話を聞かせてもらって、あまつさえ お金までもらって、はたしてぼくがあの人た ちにそれにみあうだけのよろこびと満足をあ たえることができたかどうかは正直自信が無 いけれども、僕はこういう場所だからこそプ ラトンとパイドーンでなければならない、と この仕事中ずっとおもってきたつもりだった んだ インディゴはすこし話の間を置いた …悪い病気が始まっているけれど 自分が男同士の愛にどれだけの洞察がある のかは、やはり自信がないけれども 男同士の情、というものは、広く世界に開 かれていなければならないんだと想う それは別に、フリーセックスを無責任に鼓 舞するようなことではなくて、 狭苦しい夫婦や、家庭のちまちましたエゴ イズムこそが結局は官僚主義の温床となって 社会の活力を慢性的に蝕むようなことまで 男同士の愛が模倣することはないんだ 無能で味噌っかすの人間が、大声で権利を 主張することは、どこの世界でも嫌われるこ とはもちろんなのだけれども、それはこの世 界だってたぶんそうなんだろうとおもう どちらかというと、男色は、平等主義の悪 癖とは対極にある それは、腐る官僚主義に比べて、からだと 思考の有酸素運動が、つねに破壊の半面をも つからなのだろう 男色は、男体とその知恵の健康さを賛美す る趣味だからこそ、腐敗と停滞から、努力し て水素を燃焼させて遠ざからなければならな い 軍事国家マケドニアの王子が、結局はプラ トンの孫弟子であったことは、力学の当然過 ぎる帰趨として、それは、また、当然のこと となったのだろう その意味では自己管理もできない肥満が、 同性愛者を名乗ることほど、許しがたいこと はないのかもしれないね きみも、「業務上」、こころあたりがある だろ?? アンドレは、インディゴの底意地の悪い表 情にその強い気性と、そのわかくみずみずし い誠実さを感じて少し、怖くなった その薄い恐怖がアンドレの中で、 やはり薄い性欲に転換するのにさほど時間 はかからなかった …下腹から、うずく欲望が、胸板の表面に 達し、 乳首がかるく、痛くなった …アンドレ? …ごめん、勃って、来ちゃった アンドレは、下をむいてういういしくつぶ やいた インディゴは、おやおやという表情をして、 アンドレを抱きしめた …するかい?? うえの部屋ならあいてるぜ にやにやしながら、インディゴは僕を椅子 から引き上げて、せかした 僕は、まえかがみになりながら、インディ ゴに階段をひきずられた …今日は、どちらが女役に、なるのだろう ---------------------------------------- --南仏10-- 食堂にしている建物から、岬よりの潅木と 浜のあいだに、アンドレは十アールほどの土 地を借りていた そこがいわば、冷えた残飯のいきつく先で あった 荷物をかかえ、エジプト遠征のように脚を 疲労させる砂地をいくわけにはいかないので、 一度舗装道路にでて、一輪車をおしながら 目的地のうえで浜に降りるのである 生塵芥のうえに、麻布をかけた一輪車を側 路の砂利の上に止め、塵芥入りの二つのバケ ツをもって、アンドレは白い砂浜へと、潅木 の茂みをくぐっていった そこは、菜園になる予定であった 予定であった、というのは充分にこのよう な新開地が野菜のために土ができるまでには、 最低三年はかかるからであった 水気が乾きがちなため、あまり潅木から離 れたところには作物は植えられない それでも、そのちいさな林に沿って、おお よそ百仏尺ほどの帯が、アンドレの初期菜園 であった もちろん食堂の材料である蔬菜をここで、 一年間分ぜんぶやしなうことはできないので、 ここはおもに薬味といくつかの特殊な野菜の ための土地であった 初年は、畑のはんぶんを赤いリコペアシク ムがしめていた これは、アンドレが興味をもって植えたの である 新大陸起源で、しかし欧州ではなくてはな らない野菜になってしまったものは多い どちらかといえば乾燥した気候をこのむ一 年草がおおかった ソラヌムがなければ、ドイツ人はさらにひ どい飢饉を体験することになっただろう リコペアシクムは欧州で栽培されるうち、 いくつかの品種の系統にわかれた アンドレは、ここでピクルス用に青みがか かって多産果実の品種と、煮込み用に、赤色 がつよくて多汁の品種のふたつを植えていた 薬味には、こくありふれた香草が、それぞ れ数畝植えられていた 塵芥を浅い穴になげこみ、うすく土をかけ ると、アンドレは、よく実ったトマトの実を ながめた リコペアシクムにかぎっては、アンドレは それがどろどろの寸前にまで完熟させること ができるので、ここで自家栽培をしているの である 青臭い独特の匂いは、青年の精液のそれに 少し、近かった 健康な青年を、じつはしなやかなあおだも や、とねりこにたとえたのは、じつに適切だ な、とアンドレは麦藁帽子のおくの闇のなか で想った 香草は、ごく普通に百合科、芹科、紫蘇科、 菊科のそれぞれがうえられてあった かみつれの小菊のような花が、黄色いその 芯で花開くとき、アンドレは心が痛んだ しかし追悼も成仏も、おくる側の一方的な 感情にしか過ぎないことに、アンドレはじぶ んもまた偽善者であることを、日常にうもれ つつある記憶という遺物のすがたに想った トマトは、しばらくすれば収穫ができるよ うになるようだった 南欧では、この野菜は大木になる 上手に温度を管理すれば下手をすれば冬も 越せそうであった アンドレは、とうがらしのひとかたまりの 茂みを抜けて、 はだしになって白い砂の熱さのうえを、踏 みしめるように砂の熱さを噛み締めるように あるいて、おおきな流木の丸太のうえに腰掛 けた …まるで、冗談みたいだ アンドレはおもっていた 氷水に身を投げた「雛菊」がこの光景をみ たら、なんというだろう 空は、かつてインディゴが説明してくれた とおり、異常な酸素によるぬけるような青空 であった 夜こそが、真実であるとおもっていたのに。 「…では、この光は嘘なのか」アンドレは ひとりごちた トマトは、硬いじつはまずい牛肉を安いワ インと煮込むときに主につかう。 牛を育てたことも、牛を殺したこともない 自分が、 牛の料理をつくることは、たぶん偽善なん だろうな、とアンドレはいたちに襲われて先 日全滅した鶏小屋をながめた めのまえにみえることだけで、現実をわか ったような気になってはいけない ファシズムの時代の前後にあった、新物理 の理論は、結果的に痛烈な皮肉にも満ちてい た アンドレは知らなかったが、温暖や多産な 気候というものは、うらやみから略奪の対象 に、怠惰から虐殺の許容につながるのである ---------------------------------------- --北海15-- インディゴとの情事は、いつも最初にどち らが「女」になるかで、すこしもめるのだっ た はなはだしいときは、コインをなげて決め ることもあった …どちらも、「掘られる」ことが大好きな のだった 圧倒的な力に対しては、みづからを供物の ように、その若く小さな、しかしほそい長い 白い脚がすらりと生える、腰を、 おもてうらどちらのむきにでも、たかくさ さげるのだったが、 インディゴもアンドレも、おたがいが人柄 として、好きで、年齢も体格も、内面も大体 同格で、なおかつ性の嗜好も、ほとんどおな じ、とあっては、 ここの宿での、暇を持て余したときの、し かし親密な、 インディゴとのセックスは、おたがいにと って、肉体を探検し尽くすよろこびにみちた ゲームになって、ひさしかった おもに、どちらかがどれだけ回数多く、あ いてを、よろこばせ射精できるかどうかがゲ ームの目安になっていたが、 不意打ちや、新しい趣向を、まるで手品の ように、あいてにぶつけて、じゃれあう、 はだと、内臓の、あそびもときどき、起っ た たまに、また、不意に突然、たかまってき た押さえつけられている若い腰が、 「たまらなく」なって、 急にぐいぐいとあいての股間にそのみづか らの門をつよく、角度をしらべながらふかく、 おしつけて、剣を内臓であたかかく深く、横 隔膜までふかぶかと呑みこみ、ひざではげし く動き、 相方にかんだかいするどい悲鳴をあげさせ て、その若い、青い樹液を胎内に飲み込むわ がものとするために、しぼりとることもあっ た その瞬間、アンドレと、場合によってはイ ンディゴの、 ペニスは、まるでぞうきんのように腰をさ さげている者の直腸でつよくにぎりこまれ、 内臓の両腕で、つよくひきしぼられた そんなとき、フェイントをかけた、組み敷 かれているがわの若者は、あらい息のむこう がわで、すこし得意そうな一瞥を、 プラチナの髪、あるいはさらさらの細い黒 髪で、 投げかけるのだったが、 そんなときは、ふざけてまたかるく怒った 腰をかかえているがわの青年は、 ふたたび回復しようと、なえてちぢこまっ たみづからの陰茎の芯を、 あいての熱い、内臓温度の真っ赤な粘膜の 筒の内側の熱いひだに、なじませ、まみれさ せ、あいてのまとわりつく熱い体温で、 自分の肛門や会陰や、そして自分の内臓の 恥骨まで綿密に感覚が接続されている、 じぶんの陰茎のすべての敏感な皮膚が、 あいての、内臓の、いちばん熱い、熱さで 無数の舌のようにつつみこまれているのを、 じぶんの肛門にも、堅い異物が差し込まれ ていることを夢見ながら、 まえのほうの骨盤の腸骨と、丹田と、鼠経 部と、じぶんの両の尻と、 そして、堅いものを差し入れられているこ とを夢見るじぶんの肛門を、ひきしめ、緊張 させ、 たかまっていく必死の、高まりのなかで、 高まりすぎて取り返しがつかなくならない ように気をつけながら、そのたかまりを腰を 前後させることでむさぼり、味わうと、 灼熱の無数の舌のうごめく、肉の筒の持ち 主の青年が、 低く深い、うめきごえをあげる 相手の腰のすぐ上に腰をのせている青年は、 みづからの繊毛を、アンドレ、あるいはイ ンディゴの尾底骨の上に、のせ、 その尾底骨のむこうにあるじぶんの陰茎が 相手が感じているその快感のリズムでくいし められるのを、絶妙に感じながら、 嗜虐のストロークで相手が感じている快の 吐露を、じぶんの腰づかいで、おもうがまま に演奏した 男の子の、たかさと低さが絶妙に交じり合 うその母音のあえぎ声は、悪趣味で、下劣で、 しかし高尚な、絶妙なオルガン、だった 回復しつつ、すこしずつ芯を持ち、すこし づつおおきくなりつつあるそのかたさをそな えうつある容量の若さを、 相手の骨盤の後ろ側の構造に、 じぶんの骨盤の前部を、 リズミカルに打ち付けて、 あらい息をさらにあらくあおりたてて、血 圧を加速し、 「おしおきだ」 といいながら、いっさいの手加減を加えず に長距離走のフィニッシュのゴールをかけぬ けるのだった ふかぶかとした突きひとつに、母音のかた まりが内臓の塊を差しだしているインディゴ、 あるいはアンドレの気管と咽喉から絶え間な く、漏れて、ながれて、いた。 そこに、受身の若者の意思は、なかった 背後の、攻撃者の繰り出すリズムが、内臓 と横隔膜をかってに揺らし、のどの呼吸まで もがのっとられ、支配されている。 アンドレ、あるいはインディゴは、ときど き意識して呼吸を吸わなければ、 すばらしすぎる恍惚に感じられる背後の攻 撃が、つねにこきざみなあえぎの吐息でしか ないので、 呼吸が、できなかった しかし、それすらも、背後のあいてにしっ かりと、腰をかかえこまれ、 背をおさえつけられて、支配されるよろこ びの一部となった 「…あ、 あ、ああ、 う、あああ、 うあっ、ああ、 う、うあっ あっ、うあ うああ、うああ、あ、うああ、ああ、 うわあ、うわあ、お、お、うわわあ、あ、 おう、お、お、お、お、お、うわゎわうあ、 あ、あ、ア、ア、ア、あ、あ、 あ、あ、あ …ーっ … ん、んん…」 腰をなかばかかえあげられるように、あい ての股間にもちあげられて、みづからが望ん だ甘い暴力に組み伏せられている、若者は、 わかい暴力がふたたび 熱い液体の注入で、 じぶんの腹筋の内側から、かたくしこった 両の乳首を突き抜け、 脳天までつよく吹き抜けていったことを、 四つんばいになって肛門とせすじのやわら かな肌を背後の暴力にささげている青年は、 あいてがあたえてくれた、とうとい被虐の 満足感で、 感じていた 乳首が、いらわれた ああっ… 両のたなごころで、うすい胸板を背後から おおわれ、やさしく、なでさすられ、手のや わらかいひらで、おおきなかんじやすい、乳 輪を両の外側から、両手で上下にやさしくて のひらでおおわれ、さすられた。 ---------------------------------------- --北海16-- ふたりとも、後背位がすきだった それは、ふたりがともにそれぞれ、乱暴を ふるわれることを帰納的に好むこととおなじ ことであった。 暴力は、嘘をつかない。 嘘を憎むという、その意味では、ふたりは、 おなじ生い立ちを、もっていた 対面で行う性行為とは、 性の行為のなかでもうろうとなる無意識の ややつよい風のふきぬける初夏の驟雨の快楽 の、全身であじわうシャワーのなかで、 ぼんやりと無防備にしどけなくひらいたみ づからのひとみのなかに、 あいての表情のなかの、自分を解放しきれ ないためらいを、みてしまう危険が、あった のである ふたりは、相手のリードに身をまかせると き、あたかも主人をしたう愛馬のように、み づからのひとみのうえに、めかくしをした そのめかくしは、夜遅くなるこの仕事のた めに、朝寝につかうためみなが持っていた 理想をいえば、性愛をいとなむふたりは、 すくなくともそのときは貴族でなくてはなら ない そうでなくては、日常の疲労というほこり をはらい洗い流すカタルシスにはならない 性が、ある意味では日常にとって必要な入 浴や睡眠のようなものであるのならば、それ はためらいなく、肯定的におこなわらなけれ ばならない 性が満足できない、じぶんを肯定的に解放 できない人は、おそらく自分の労働や日常を 肯定的に循環できていないひとである ふたりとも、お客さんのすべてが、そのよ うに自己の実現がうまくいっている人ばかり ではないことを、哀しい背伸びで知らされつ くしているので、 もし、希望が通れば、背面から攻めてもら うことをねがい、 そうでなければ、相手の自分勝手な精神的 な暴力に身をゆだね、じぶんのなかのマゾヒ ズムを最大限にひらき、そのなかに身をしず めるのだった なぜなら、ふたりにとって、それは労働だ ったから。 またしかし、そんなとき、かれらはじぶん が自己憐憫がまだ似合ううつくしい若さのな かにいることに、じぶんがあまえていること に、せめてもの安堵の吐息を、つくのだった。 アンドレは、アル中の客に対面座位をもと められたとき、ひざをかかえあげられながら、 インディゴはおなじとき、どのように自分の 気持ちをだましているのかかれを気遣う気持 ちが、一瞬、挿入される前に、はしった。 おれをばかにしてるだろ、 ばかにしてるだろ… なぐられながら、そそぎこまれて、アンド レはふるい苦痛をおもいおこしながら、冥く たのしんだのだった…。 客がかえったあと、腫れないように左の眼 窩の骨に冷湿布をあてながら、 インディゴは、これをあじわってはいけな い…、と無意識で想った。 担当の店員が、いくら配慮をしても、多少 不安定な客はまぎれこんでくるものだと、こ こに長くいれば、だれもがおもいしるのであ る うらまれて道で刺し殺される危険もあるか もな、とおもいつつ同輩のために、その客を 出入り禁止にするように担当にアンドレは言 った からだ張ってんだから、気をつけてね アンドレはこの宿で色子が自分ひとりだけ だったらじぶんはそういう配慮はしないだろ うなと、おもった もっとも、こんなたかい店、あんな不安定 な客はそうそうお金ははらえないだろうが 後輩達は、そこまでふかくはものを考えな かった うつくしいかもしれないがしかし、乳臭い 背の高い少年にアンドレはインディゴとはな すようには、憧れや親愛を感じることはでき なかった かれは、さめた認識で感じていた かれらは、いずれ枯れるだろう 深いみどりの葉をひろげることを忘れたも やしは、蒸散をつかさどる器官がないから水 ぶくれになった下半身と精神が、ねぐされを おこすのだ それは、部分的には事実となった 雛菊をもっとめんどうを見てやればよかっ た、とおもう淡さが卑怯な自責をともなって。 肉体の労務者は、アンドレの父と同様に、 そのようにそのひとみに自信の色がないこと がちらちら、あり、そのような者はしばしば 酒や栄光を買い戻すためのギャンブルの罠へ とむかう そのような客が手についた粟でアンドレ達 を買いに来ることがあり、たいていはその素 性をみぬかれてやんわりとことわられるのだ が、たまには、上の階にまで、まぎれてあが ってきてしまう アンドレが奉仕させられた客は、別に男色 ではなかった …じぶんをつねに馬鹿にする若者のサンプ ルに制裁を加え、苦痛をあたえ泣き叫ぶ顔で、 溜飲を下げにきたのである …彼にとって、おれのなかを走り抜けたゴ ールは、はたしてかれのためになったのかな、 とアンドレは数日後に静かに想った 彼につかわれる金が、かわいそうだ、とい う思い上がった意識はアンドレにはなかった 不器用にゆがんだ破綻の感情でなければ、 おとくいさんにしてあげてもよかったのに、 とおもいかけて、じぶんのかなりの部分で女 の部分が成長していることに気づいて、ささ やかに上気し、ささやかに驚愕した。 父親に対する郷愁もあったのかもしれない 好きになった人に弱いところがあれば、そ れを補佐してあげようというのは、たぶん女 性の感覚であった 魅力というものは欠点とペアになって男性 において発現するものなのである 女性的な人間は、同性愛者を含めて男性の そばにいるべきなのかもしれない アンドレはこの北の町で女性の同性愛者の しりあいはいなかったが、 その意味で、アンドレのなかの女性的な部 分は、レズビアンの心理がよくわからなかっ た うちふるえて、屈辱も暴力をもすばらしい ものとしてうけいれることに成功した彼にと って、 アンドレのなかの彼女達の像は、生きてい くための肯定的なマゾヒズムの獲得に失敗し たか、それがうまくいっていない現実なのだ ろうな、とまでは想像ができていた 逆説的に言えば、マゾヒズムとは自分に自 信のある強さがなければ、獲得することがで きない そのような鉄の錨がなくては、無限深にし ずんでいくような暴力はおそらくおそろしい ものであった それはこどもが、闇の忘却の河をおそれる すがたに似ていた たぶん、彼女達は恋愛うんぬんよりも先に、 慈しみをもって思春期の段階までさえ、そだ てられてはいないのだろう ただ、厳密には錨を必要とするマゾヒズム は、じつはずるいにせものなのかもしれない 一面的な見方でしかないのかもしれないが、 庇護された学園の紫苑の中の淡くなつかし い勘違いでないかぎり、アンドレには成人の 女性の同性愛者とは、弱者の同盟連帯のため の儀礼的な踏絵にすぎないような気がしてい た たぶん、社会が男性の空間認識と時計の論 理がつくったものであるかぎり、 社会のなかで女性同士の一対が労働をも含 めて生活していくことは、じつは二重の庇護 を必要としていた すくなくとも、女性が男性の卑怯な世界で 対等に勝負していこうとすることはたぶん、 賢明ではない 男性の世界はつねにゲリラ戦であり、誠実 さは原則的には評価されない そのことに憤慨し、理論にはしると結局は 男たちによって使い捨てにされる ゲリラ戦をたたかうためには、複雑な地形 を読む能力と、効果的な殺傷技術が、必要と なる これはもちろん比喩である 一方、女性の努力の評価は女性同士の水準 に合わせたトラックのなかで評価されなけれ ばならず、それは閉じた世界であった それは結局、外の世界を作った男性たちに よって祝福を受けなければその意味は、薄い のかもしれない サッフォーの紫苑などで、女性が女性にあ こがれをもつばあい、そこに擬似的に蒸留さ れた男性のちからをみるはずであるが、 厳密には卑怯の大地にこまかい根を張る現 実の男性のその種の力というものに、対抗で きるわけがないことは、実は告白されるその 上級生自身がかなしいくらいよく知っている ことであった 庇護された紫苑のなかでは、たいていイン フェリヤのがわに、成長しきれていない、無 知があるもののようであった 下からみあげると流星雨は、無限の天空を 埋め尽くしているようにみえるが、それはじ つは光年という事実上の永遠ではなく、じつ はすぐ手のとどくちかくにある。 尊敬というものはひきあげてもらったあと、 感謝に転化されなければならず、 後輩がおなじ階にあがってきたときは、慕 情が牙に変わることを受け入れなければなら ない おたがいの感情に誠実であるために、努力 しつづけることは尊いのだろうが、こころを も支配する自然の法則は、このようにそこま でやさしくは、ない 賢明であるべき、成人がそれにきづかない、 あるいはきづかない振りをすることには、 なにか、そこには虚飾とゆがみがあるよう に、理学をまなんだアンドレにはおもえた たぶん、紫苑の「外側」の女同士のたいて いとは、男性同士の理想とはことなり、 殴られて、うばわれたすがたなのだ 愛情を込めて殴られていれば、彼女達があ んなにいちように、つかれきった表情でけだ るくあるくはずもない 殴られたので、力に忌避の感情をもち、 奪われたので、ダイヤモンドをほしがるこ とに、いっけん謙虚にみえる恐怖を、もつ。 それでは、生きるために力のあとを追い、 難民として脱出するために、全財産を宝石の かたちに変えることもできはしない 彼女達、精神の拒食症患者のつかれきった すがたが、男同士の表情に表れるときはもち ろん、かれらもおなじ状況にあることは、い うまでもないだろう それはアンドレやインディゴのなかにもわ ずかにあった ふたりは、それを燃焼する手段を獲得する ことに成功したので、すくなくとも市井の健 康さを手に入れることができたにすぎない …後輩たちは、かならずしもそうではなか った 内面ではなく外の愛情にめがくらんでいる ばあい、気がついたときは手遅れである場合 が多かった。感情におぼれているときは、彼 らは助言を聞かない。 いいわけとしての理論での武装ではなく快 刀乱麻のための幾何学を、 実存主義の講義よりもまず、前に進むため のガソリンとしての栄養を、 もとめることは、四億年前からの本能であ る 不毛な講義は寄生執事が、遺産の目録をつ くる作業に似ていた ときに悪官僚とよばれるかれらは、崩れか かる館の土台を漆喰で補修するしかその存在 を補強するすべはないのかもしれない その意味でくずれかけた王朝を紫苑のよう にかざりたてるのは、中華料理を教えてくれ た青年によると、玄宗の木妖、というのだそ うだ にっちもさっちもいかなくなった自然法則 が歴史のうねりとしておしよせるとき、かれ らはむしけらとしてあつかわれる 収容所に連行されないように予防としてま ずすべきことは、ゲットーからまず離れるこ とである くずれかかった王朝や、駐車場の小石にし がみついていてはいけない 微量栄養や蛋白質の補給で脅迫症神経症は 改善されることが多く、つかれきった表情が はれれば、すくなくとも彼女達のはんぶんは、 形式だけの愛に参加する必要がなくなるか、 あるいは愛からかたくるしい形式を抜くこ とに、成功することができるだろう たぶん、彼女達にとって必要なことは愛の 形式に対する権利の是認よりも先に、 精神的な拒食症を治療によって軽減するこ となのだろう アンドレは大喰らいであった しっかり食べてなぐられてもへこたれない こころをつくることは、たぶんマゾヒズムの 趣味のあるなしにかかわらない アンドレが呼ぶ名前としてのインディゴと ということばはインドの藍の色である その土地のやはりプリズムの光の蒼でかが やくながい尾羽は、孔雀の尾羽なのである 鶏と同族のその鳥は悪食で、ときに毒蛇ま でも、つつき殺して、食べてしまう 毒をも栄養に変えてしまうようなその神秘 を、土地のひとびとは神話のなかで浄化と再 生のシンボルとした あるいは、孔雀こそがフェニックスの伝説 の上での先祖なのかもしれない みとめることはそれを感じているこころか らみると、誠実さの裏切りなのかもしれない が、アンドレとインディゴにとってマゾヒズ ムとは石油や石炭さえ消化しかねない強力な 代謝であった 殺されない限り、マゾヒズムは逆境の位相 を強さに変換しつづける。 そのために食事によって強力な酵素を分泌 する訓練をおこたることは、ふつうは問題で あった その結果気力も実力もなえてしまった人生 では時代がひっくり返って、ポーランド行き の列車に押し込まれたとき、勇気をふりしぼ ってその貨物列車から脱出するなんてことは できないだろう そのような卑屈は時代がひっくりかえるま えから、すでに亡者なのである * 治療されない彼らが一定数を越えると、じ きに弱者の同盟をつくるようになる 合理的で精緻な実需のあるよくもわるくも の媚を商品としてあみだせなかった弱者達が 組んだ、無能な貧民政党のようにみえた。そ の意味では、貧民党のなかに職人はいないも のである。 かれらはじぶん達のためには減税を、 じぶん以外にはかならず増税を唱える それは狭量なエゴイズムのユニオンであっ た。またそこには抵抗できない彼らの心の弱 さにつけこむ潜在的に傲慢なアジテーション があった その傲慢さはうらぎられることを知らない という意味で、ナロードニキのように純粋で もあった 権利を叫ぶより、じぶん達の不毛をまずで きるだけ治療しろよ、とふつうの努力家は、 おもうことだろう 現実には、軟弱な男性の同性愛者の大半だ って似たようなものだが じぶんを弱者であるとするのは便利で甘い 詭弁である 大抵の男性の同性愛者は以上の悪い意味で のサッフォーの園を夢みるスラムの難民のよ うにふるまう 長期間にわたってその自己憐憫に酔ってい ると、いずれ誰もかれらを相手にしなくなる なまけもののダフ屋は、かれらを珍獣に仕 立て、自分たちを飼育係として雇うように世 論と税金にうったえ、自称理解のあるような 知識人を名乗るようになるのかもしれない * ずるを好きになることができない少年の心 が、たいていはずるい女性、をすきにはなれ ないように、 アンドレはいわゆる自称知的な職業の客の 半分弱を好きになることはできなかった 職業上おそらく必要な幼稚を飼っておくが ために、ずるをつかって格式を保全し、保身 のためにきわめて後輩や社会に囲い込みを厳 しくする その格式の異様で、日常的な感覚からすれ ば必要以上に硬いよろいがとりはらわれた、 無垢で無能な幼児の陰茎が、あてがわれさ しこまれているのかと想うと、たまにアンド レは吐き気をもよおすことがあった それはけっして戦士の槍ではなかった 紫外線を知らない洞窟の水分の多いアホロ ートルである じつは乳幼児のようなあどけなさで青年を 抱くその表情をめのまえにして、アンドレは 喘ぎ声を演じることはできなかった …そんな客にあたってしまったとき、かれ は世慣れた詭弁で、行為をやはり後背位へと、 誘導するのである 腹のそこで、侮蔑しながら。 彼らは幼稚なので、暗示で誘導することは たやすい アンドレにとって、かれらもまた、弱者で あった 知識人はごはんをたべずに加工された甘い お菓子を食べる それはかれらの職業が無責任に抽象にかこ まれているからなのだろう 鶏をしめたことはないに相違ない アンドレはかれらのピンクの外鰓を引きち ぎり、セルシウス五十度のかわききったサハ ラの彼方へかれらをなげこむ妄想とたたかう ことに、苦労した。 アンドレにとって、商店主や職人や陽気な 労働者の客がつづく日々が、報われる満足の 労働であった ---------------------------------------- --南仏11-- 海があるというので遠いところに住んでい る者は気がつかないが、じつは地中海地方は 砂漠地帯なのである 雨が、ふらない 大西洋にひらいているヘラクレスの門から、 蒸発で重くなった塩水が深く、排出され、ま た表層からしずかにあつみがうすく、濃度が うすい海水が鏡のようにキプロスの方角にむ かって拡散していかないと、地中海はいずれ 中央アジアの中型の塩水のみずうみのように、 ひあがってしまうだろう ヘラクレスの門は、古代は覇権のシンボル であった 季節風のふいごを発明したヒッタイトのま え、古代、ブリタニアとよばれたイギリスと、 キプロスを同盟や占領でおさえ、西の果てと 東の果ての金属を元子のレベルでまぜあわせ ると、やはり覇権の原動力となる青銅の冷酷 な刃物が誕生した ユーラシアは、陸のかたまりの寄り合い所 帯であった それはその上の民族がまた寄り合い所帯で あるように それぞれの小地塊が衝突してもりあがるま え、それぞれのあいだには浅いうみがあちこ ちに、回廊のようにひろがり、のびていた むかしは、地中海は北海とつながっていた。 そこに岩塩が出るのは、そこがむかし海だ ったころのなごりである そのあたりは、火山性ではない腐った堆積 物の地域であり、ドイツとの略奪戦のたねに なったルールの炭田やイギリスがあてにして いる北海の油田はその時代がのこしたもので あった ライン川は北部地中海のなごりである 地中海自体が恐竜時代の大テーチス海のな ごりであるように 地中海の東は、トルコ高原のむこうも海で あり、アラル・カスピをまきこんでうみはた ぶんシベリアの南で太平洋にひらいていた そこが温暖で雨のおおい気候だったらしい ことは、華僑の青年のふるさとの北でモンゴ ルの恐竜の遺物がたくさんでる理由でもあっ た 竜骨と称して、そのなかには北京エレクト スのほねもくだかれてお茶といっしょにのま れてしまったのかもしれないが かれのからだには上品なあおじろいいやら しさがあった 功利的な道教まじないによる、あやしい漢 方薬のような青年であった それを中華のプロテスタンティズムでいや みにならないように抑制はしてはいたが、人 生の根幹では、食欲と享楽が重要であること を、たぶん民族の伝統としてよくしっていた のだろう その意味ではかれの感覚はこのラテンの地 域とおなじであった やや、寒いアングロサクソンの地域とは、 その生来の性質とは、おもいだしてみれば、 たしかにちがうようであった またグラスゴーあたりですねている享楽的 だがなげやりな、無学無遠慮でなげやりに下 品なわかものとは、もちろんかれはまったく ちがっていた かれは努力家であり、また自分の人生の利 益とはなにかということをはやくからしって いたのであるから アンドレは、開放的な南の土地にきてから、 そのひろい空間に、ときどきむかしを想い出 すようになっていた あの中国人青年と、かつての北の宿のふた りを、めしをくわせながら雑談鼎談させたら、 さぞおもしろいだろうに、とおもった 手が離れるとそれが映像としての記憶にな ってしまうのは、手をのばしてもとどかなか ったおさない時代のつらい経験がのこしたく せであることに、まだアンドレは気がついて いなかった だから、肌をもとめるのかもしれない アンドレの色情への潜在的なふかい欲望は、 栄養という生理的な神経への保証とともに、 過去にきざまれた日常からの祝福の枯渇が、 人格に、きたない尿酸のように結晶したもの かもしれなかった * 地中海は砂漠地域である とうぜん、あまり雨はふらない アンドレは、マルセイユから地中海を望ん で、その月面が海におぼれたような荒涼とし た景色に絶句した この地域では、古来淡水の確保が権力の文 字通りのみなもとになることを、その風景を みたときにアンドレは瞬間的にさとった。 マルセイユが古代ギリシャ時代から、地域 の重要拠点であったそのゆえんは、フランス 地塊からとうとうと大量の淡水が河となって 地中海に到達していたからであった アンドレは後背地塊山脈から水がわきだす ような土地を選んで、腰をすえることにした その地方の比較的湿潤な土地では、それなり の収穫と作物が育っていたが、 ちかくのおかのてっぺんにのぼり、その半 砂漠のような風景にややこころをいためた なるほど、これではオリーブしかとれない わけだ、と しかし、そのおかの風景はくずれた卵黄の ような夕日が潅木のむこうにしずむとき、お そろしい闇の海をもたらした 砂漠の高圧気圧帯の下降気流が雨はおろか ほとんど雲もつくらない不毛な青空が、夜に は異常な深さの星の海になった。 深刻なアラビア名の夜空がここにもあった 数学は天文学からはじまったのだ フランスの高等数学は動機の意味ではにせ ものであった ベルヌーイもラグランジュも、動機の意味 ではガリレオにはかなわないのかもしれない アンドレは、こんな人間をいだく広大さを しらなかった 星空の夜が、じつは湿潤な北よりも球体の 半径として五、六倍ほども、おおきかった そのことを、けむりのむこうのトニに、く りかえしくりかえしつたえるとかれはソース でよごれた頬ひげのむこうで、そうだろう、 そうだろうと、無心にうなずいてくれた こうばしい煙と野菜と、そして肉が焼ける においが、僕達が変態の関係であることを知 っている、 アンヌをふくんだおんなのこたちが野外の 食事によろこんでいるさまを、つつんでいた ---------------------------------------- --北海17-- 仕事を離れてアンドレはインディゴと、イ ンディゴはアンドレと抱き合うとき、 にがい疲労をうけたはだの感覚を、おたが いの愛撫でぬりつぶして清めるのである その履新の行為は、精神の彼らの洗浄とシ ャワー、であった かれらは、その洗浄を明確に経験として上 書きするため、ふたりは、おおむね素面でだ きあった いろいろの理性をオフにして高みの螺旋階 段を一段階ごと戻らないクラッチの歯車を意 識で構築しながら、一歩一歩高みへと虚空を ふみしめて昇っていく行為だったので、 それは快楽というアンドレとインディゴが 欲しがる人参をもとめて、インディゴとアン ドレという猿が必死に理性をつむいでいく作 業だったので、 ふたりにとって理性が快楽の下僕であるこ とを突然に放棄し、 みづからを快楽のうえに置き、その快楽を つまらない風景の要素のひとつとして、さめ た風景の俯瞰をはじめないようにいつも気を 配っていた ふたりは行為の最中、繊細であろうとした 考え付くかぎりの配慮をおこなおうとした そうでなければ、信頼がたがいに手をたづ さえて、悦楽のシータ波がエクスタシーとし てあふれこぼれてしまう雲海にいたるための、 期待に満ちた螺旋階段のいっぽいっぽの重 みを腰と直腸のしびれとしてあじわうことは できなかったのである その意味では、ベッドでのふたりにとって、 性の行為とは、洗練された都会のジックラト ということができた シータ波の一瞬のパラダイスは、たしかに 到達という達成のあと、カラメルでつくられ た金の繊維のガラス細工のように、攻撃と被 虐という銀のスプーンでこなごなに粉砕され て、 虚空にきらきらと舞い落ちるすがただった のだけれども、 それでも、性がその過程においては、極端 に繊細で知的な行為であったので、本当はア ンドレ達にかぎらず、だれでもすくなくとも その行為の最中は、おろかさや思慮の不足を 排除し、またされなければならない ・ゆえに、ふたりは性のクライマックスをた かめてかけぬけていくために、後背位をのぞ んで選ぶことがおおかった。 誠実さを込めて、あいての腕をやさしく引 き、信頼で背をやさしく押されることをゆる し、背筋をしならせて、わかい四肢をたわま せながら、四つんばいになってやさしく背後 をふりかえり、快楽に疲れた表情で、受け身 の少年は、ほほえんでいた。 男性はたとえ少年であっても、意識が平行 して複数の教科のノートに分かれている。 女性のように料理や刺繍に没頭する構造で はない だから平均一般、女性はライオンがうろう ろしている社会の草原のただなかで居てはい けないのだ 一心不乱に刺繍を草原で行っていては、三 時間後には彼女は赤く乾いた骨になっている ことだろう 同時にいろいろなことを眺め、かつ警戒す るたとえ少年でも男性の意識が、犯されて性 の快楽の青白いただひとつの火の玉でありた いと、たとえこころのそこから願ったとして も、 紅色の快楽が奔流として意識をおしながし ていたとしても、その最中に、くだらないあ るいは些細な日常へのちいさなアンカーが、 ちら、とときどき顔をのぞかせるのである それがかんばせに一瞬でも走り、いとしい 性の相手の、もうろうがよぶ神経の機能とし てとぎすまされた快楽の背後のするどい警戒 感にひっかからないように、 …ひっかかって、しらけて、性の行為の攻 撃が鈍り、また内臓のゆさぶられるその振動 であいてをすばらしいものとして感じあげる 相乗のらせんの圧力がしぼむことを憎んだ。 相手を性の行動作業として尊重し、またじ ぶんがしらけしぼむことをいやがるからこそ、 確実に楽しみたい場合は、インディゴもア ンドレも、それぞれ、四つんばいに、なった。 もちろん、ボタンをたがいにはずしあった り、 前戯で、あいての乳輪にくちびるをふれた りするときは、ふたりとも笑みをかわした。 * しかし思慮の不足とは、乱暴をさすのでは ない 相手が、配慮された乱暴をのぞむ場合はそ れをあたえる場合が愛情という思慮になる場 合があった たとえば悪辣な嗜虐とは、相手がそれをの ぞみ、またそれをこのむ者であることを知っ ている場合にのみ、はじめて許可される また、そのような意識下の「許可証」とは、 おそらくおたがいが親密である帰結として、 あいての嗜好の綿密な記憶という親密なので あった 逆説だが、暴力的なセックスというものは その背後にいたわりがあって初めてその関係 がされるがわにとっても、するがわにとって も、はじめて長続きするのかもしれないそし て、 親密な一対というものは、たぶん、すくな くとも肉体の関係においても、たがいがたが いの嗜好にあわせて、じぶんの内なる欲求を すこしづつつくりかえていく関係なのであろ う。なんぴとも、最初からたばこやワインが 好きだったものはいない たぶん、信頼をよすがの支点としてふかく、 腰と内臓にすこしづつ、ちからをこめること によって。 * ふたりとも、あいてのひとみを、愛情を持 って覗き込むことが、 じつは媚であり、 じつは、相手に愛情の強制をしいる行為で あることを、知っていた ふたりとも、愛に飢えるということがなん であるかを知っているので、 相手に、それを強制したくはなかった ふたりとも、その意味では意地をはって強 がる男の子なのかもしれなかった ふたりともどこかで、すくなくとも素面で は、たとえ、あいてが気心のしれたインディ ゴ、あるいはアンドレであったとしても、 ふたりは、おたがいをうしないたくはない がためにも、それぞれ、おたがいに、甘えか かることを、制御していた それと、セックスのレスリングとは、まっ たくちがうものである 脳裏に火花が散る絶頂は、過去のいまわし い記憶と、毎日の疲労を、魔人の風のように、 ふきちらすカタルシスで、あった それぞれは、それぞれあくまでじぶん自身 の快楽の解放という癒しをもとめて、 ちからなく四つん這いになり、背後の友人 に、無防備な内臓のすべてを、さしだすので ある つまり、アンドレもインディゴも、戦友と して、おたがいの、春を、買っているといえ た それが、対等なバーターの「取引」である のならば、やはり、普通の客同様、その、表 情は、みえないほうが、いい。 またふたりは、じぶんが男性であることを しっているからこそ、愛にすがりたくはなか った 男の子はしばしば、他人を愛せない 戦友や、同胞愛とは、厳密には愛ではなく、 友情である エストロゲンと電子偏在性が正反対の 「アンドロゲン」で心ができてしまった側の 少年は、 自分自身がこころの複相モザイクであるキ メラのゴーレムであることを知っているので、 たとえ、どんなに女役の被虐の絶頂をするべ き祝福された役割の最中であったとしても、 こころの片隅では、冷静に明日の予定など をかんがえているのだ それは無意識が動かす意識だけにたちが悪 い。うえつけられた倫理、あるいは社会から 非難されることを避けることがその無意識を 制限しない限り、 男性の無意識は恋人の相対的な価値を、通 貨の基準で計ったりをもするのだ 逆説的だが、男性の意識の底がそのような 先天的な警戒心でつねに戦略と価値の順番を 決めることできらめいているからこそ、 男性の愛は博愛を出発点にするしかやむを えない 区別をすると男性はそこに戦略の地図をひ ろげなければならない 攻撃の地図の上に愛があるものか それは、愛とは勝利が確定したあと、殺さ なかった捕虜に手前勝手にそそぐものだった からである。手塩にかけた愛、ということば に、まびかれた苗や子豚はけっしてふくまれ ない。 愛することができず、 愛されることしかできない、ということは 結局は生殺与奪の権限を相手にゆだねること である けなげさ、とはそのようなマゾヒズムに誇 りをあたえる魔法であるので、 ひとはまずけなげであるところから人生を はじめなければならない ずるとは、限界や諦観からの必要悪なので、 若輩の権利ではない * そういう正統的な男性でもある男の子が、 他人に全存在をささげるという意味での愛 など、他人にできるはずも、ない 貴婦人に騎士道をささげる伊達男にとって、 貴婦人と言うものはなまみの女性ではなく、 おおきな社会の構造の一部である 男性がなにかに味方をするばあい、それは あくまで暫定的な契約である 金属のリングなどがかれらの強烈な核反応 の炉心を本質的におしとどめることはできな い 男性のもつ、空間認識能力が、肯定が社会 的な博愛であればこそと願う気持ちは、現在 の恋人や妻のむこうに、社会の風景をみる 肉体的には妻の体を抱いても、かれは妻の 体を通してすべての女性を愛しているのだ それがわからない女は、男を理解している とはいえない アンドレは、女として、それを理解しよう とつとめていた * …ふたりとも、じぶんの前半生と、また、 じぶんの生理的なこころの本性を知っている のでしとねで、 愛してる という言葉はささやかなかった その意味で、あいてを尊重するからこそ、 ふたりとも、むかいあう体位をできるだけさ けているのである じつは、傲慢なじぶんを隠しつつ、掘られ る少女を、演じながら、 ふかぶかと、掘ってもらう。 だから、ふたりはじぶんのなかにあふれて くるあまい甘えの感情におぼれながら、おぼ れていても、 ・ふいに媚びてしまう自分の態度をできるだ け隠すため、 後背位を体位として使うのである じぶんを理解して、その相手にそのみにく さをあえてかぶせることを欲しない。 だからこそ、ふいにこびてしまう自分を隠 すため、また対面の体位を、さけるのである アンドレとインディゴのプライベートでな くても、 弱い女のように、あいてのひとみのなかに じぶんを捨てないでねというよわよわしくし ばしばひきょうな媚を、性のレスリングの最 中にしなだれかかれるのは、 …男性にとって、しばしばしらけるものな のである これを、男性側の身勝手、といえるだろう か たぶん、インディゴも、アンドレもなぜこ の少年愛好の売春窟で、人気があったのかと いうことは、たぶんそのようなことに起因し ているからだった 現実に疲れた疲労を、いやすために来る客 にとって、 ひきしめる穴をもつ、少年とのセックスは、 純粋な排泄行為だった なめらかな肌をなめ、なでまわし、みづか らの気持を次第にたかめていって、もよおし た欲望のままに、 少年達の後ろのあなに、汚物を、排尿感の ように、そそぎこむ アンドレは、ときどき、バスルームで、客 の白い液体だけがでてくる便意に、ときどき 顔をしかめることがあったが、 インディゴは、かれの背中をけして同情だ けではない感情で、やさしくさすりながら、 「しかたないね、こういう仕事なんだから」、 と、やさしくなぐさめるのであった この宿で、たぶんふたりだけが、いたいた しく、せのびをしていた 人気がある、ということは、受け入れる排 泄物の量も、また、多い、のである あまりに、精神的につらいときは、あいて がいそがしいときでないかぎり、アンドレは、 内部を洗浄したあと、いわば、「清め」とし て、インディゴに突き入れてもらうことを、 願うことがあった ときどきは、もちろん、その逆もあった …アンドレは、自分の精神が、つくりかえ られていくのを呆然と、感じていた それは、かならずしも、苦痛ではない しかし、けっしてもとには戻れない、変化 だった 先輩達が、毎日のささやかな、しかし積算 されると無意識だけが疲労するじつはそうと うな疲労をわりきった態度で、のりこえよう としている姿を、後輩の少年達はかならずし も理解しているわけではなかった。 肌のうつくしい幼少はたぶんに精神が未熟 であった 先輩達が、ベッドを戦場とこころえて、互 いが戦友として傷をなめあっているすがたに、 実はそのいたわりが、甘い愛などではないこ とにを、かれらは理解できないだろう あまりにひどい少年はもともと、主人は採 用しなかったが、 それでも、年少の少年は、ここでの労働と、 客に対する甘えを、区別することは、土台無 理かもしれなかった 正直なところ、インディゴも、アンドレも、 自分のことに精一杯で、客から甘やかされて しばしばおもいあがっている後輩をみちびく、 なんてことは十分はできなかった 人格が未熟なまま、性の仕事に入ってしま うと、客を金としかみなくなるのは、別に少 年売春に、かぎったはなしではない じぶんのエゴを前面に押し出し、 「料金」以上の愛情をも、客から 恋の、名目で 永遠に埋め尽くされることの無い、自分を わかっていない子供っぽい金額の桁だけが指 数的にふくれあがる飢えを、再現なくあいて から搾り取ろうとする男の子は、 結局は、田舎の小娘なのである 愛というものが、結局は契約に過ぎず、 男の子であるのならば、さばさばした覚悟 で世の中を見渡さなければならないと感じて いるインディゴは、 その愛を、みたされなかったかつえ、愛の 飢えとして被虐に転化することで、自分の電 気の回路を閉じていた インディゴである「ニールス」も、自分も そのくらい、つよい人間だと、おもっていた それをおさないうぬぼれと笑ってはいけな い すくなくとも最初はうぬぼれなければ、な にも手には入らない 欲しいものを欲しいと、言うことはそうい うことである もちろん、うぬぼれたからといってかなら ずしもすべての者が強さを手に入れられるわ けではない うぬぼれた無知に融資したリテール融資債 権やベンチャーエンジェルがたいていジャン ク債であるゆえんである 汝自身を知れ、とはかつてパイドーンも聞 いた台詞だったかもしれない しかしそれはそう簡単ではなかった 単なる知識は、「焼きいれ」をもとめる。 ---------------------------------------- --南仏12-- 香草はじつは成分では毒草のことである たいていの植物はおもに防虫駆虫のために そのような成分を分泌し、あるいは濃縮する 人間の肝臓はたぶん解毒が強い部類に入る 肉食が続くと体内に毒素がたまるため、中 和をするために獣はときどき酸味のあるくだ ものをもとめるが、 林檎はたべられてもオレンジを食べること ができない若干がいる オレンジの皮の香りの、シトラス油が毒と して体内で炎症をおこしてしまうのだ 香草のかおりはたいていがシトラス油の親 類である 人間の肝臓がちからがつよいといってもけ っして最強ではない もし自然界で最強にちかい力をもっていれ ば、いまごろこの菜園にきんぽうげ科のうつ くしい花々がさきあふれていることだろう そして、紫仏子のセロリのような葉と、う つくしい深い青の花がサラダのメニューに加 わるだろうが、 現実の人間の肝臓の世界でそんな品を出し たとしたら下手をしたら死刑の判決が下りる ことだろう ソクラテスを死刑にしたヘムロックは、芹 科の毒草の根であった ---------------------------------------- --北海18-- おそらく、もうそう日にちのないこの宿で の暮らしの中で、 僕達はたがいのアヌスを犯しあった いまは、仕事ではなく純粋によろこびを楽 しめばいいだけ、であったが、 その半面、その自由な、性の快楽とは、互 いの別れが刻一刻としのびよってくるしずか な恐怖でもあった インディゴの肋骨の上のぎざぎざになみう つ白い若い皮膚をなめ、 インディゴはまるで内臓などいっさい無い ような、僕のはかない紙のようにひらべった い腹部の皮膚を、背なから、臍へといとおし むようになでまわした だらしなくしぼんだおたがいのペニスをそ のふたりの腹にやわらかくはさみ、 僕たちはふたりの肋骨の胸の籠をかさねて いるので、ふたりはそのわかいふたつの胸を ぴったりとかさねていた ときどき、たがいのわかい乳輪がふれあっ た 快楽の余韻に、くすくすわらいながら、ふ たりはたがいのあごをたがいの肩に乗せ、た がいの左の耳朶は、たがいのそれぞれのひだ りがわにあった 深いしっとりとした口づけの中で、必死に たがいの唾液をのみくだし、さらなる唾液を 求めて、おたがいの舌を奥ふかくまでつよく 吸い、喉の奥までくわえこみ、そのうごきを からめた きれいなかんばせのインディゴが、ぼくの めのまえで、両のまぶたを閉じ、うっとりと あほうの顔をしている… 快楽をむさぼりつくしたようにみえても、 このように、事後の余韻でおたがいに、おた がいをいとおしむ気持で、愛情の吐露の表現 をそそいでいるうち、そのうちにまた、おた がいがたかぶってきてしまい、ぼくたちはひ とばんのうち、なんどでも、もとめあった インディゴはきついたばこを吸っていた 釣り糸のようにかがやく、そのいろの薄い 金髪が、伏せた蒼い虹彩のうえに額からかか り、そのものうい表情は、タールの成分がこ の青年の脳にしみとおりつつあることを示し ていた …たばこ、すうんだ きらいじゃない、だけさ インディゴは、吸っていた両切りを、僕の 口にくわえさせると、 自分は天井を見上げて仰向けになり、腕を あたまの後ろで組んだ ぼくは、その彼が吸っていたたばこのその きつさに、眉をひそめた …アンドレは、そのきつい味におもった。 なぜ、かれが僕を慕うのかを。 たぶん、 かれのなかでは、自分が硫酸をくぐってい ないことに、苛立ちがあるのだ だから、ときおりオレンジ色の煙をたなび かせる、じぶんのなかの濃い硝酸の部分に、 あこがれがあるのだ たぶん。 そのときはアンドレはしらなかったが、イ ンディゴの名前は実は触媒として硫酸をつく るのである 自分自身は劇物ではないのにもかかわらず その酸は、さわるものすべてを、黄色く変 える。 硝酸は、芳香炭素の官僚主義から水素を引 き抜いて、固陋な保守主義に、風穴を開ける その黄色が、経済の収縮という塩基性によ って、逆に陵辱されるとき、 それは、淫靡な、蒼を、呈する、のだ。 お客さんがいやがるからね まあこの仕事をはなれるのならば、大手を 振ってすえるんだけれども、僕にとって、た ばこなんてたいした問題じゃない なきゃないで別に支障はない 僕はわからないよ、禁煙できない人がいる ことが ためしたことはないけれども、たぶん禁煙 できない人は麻薬だってやめられないだろう し、 簡単に自由自在に禁煙できる人は、たぶん ヘロインだってのめりこまないんじゃないか な 気持と生きがいの問題なんだよ、たぶん。 いろんな問題は、結局世の中に生きがいの 肥料が足りないことだけで、 現行犯だけを追いかけるのは、あたまの足 りない女性的な官吏がやることさ ナチスの実行部隊には、女性がおおかった って、知っているかい 彼女達はものごとの奥行きをおしはかる能 力が性差によって比較的にうまくないから、 簡単に洗脳されるんだ それをして、おんなは馬鹿だ、ということ もいえるだろうし、 だからこそ精神的にか弱い彼女達を庇護し なければならない、ということもいえるんだ ろう 僕は、自分の弱い継母にそれをこまかいた くさんのこととして見てきたよ 社会と自然は、構造でできている それを理解し、それに挑戦していくのは、 一般的に言って男性でなければならない これは生理学のはなしなんだ アンドレ、僕たちは男なんだよ きみは、機能としてのアンドロイドだ 君の事情は、聞いたから、知ってはいるが、 平凡な偶然とはいえ、いい名をもらったね インディゴはいとおしそうに、またさみし そうに僕の頬をてをのばして、撫ぜた …南に行くんだろ いいなあ、いろんな花が咲いているんだろ うなあ 自分は緑や植物が太陽の光のもとにかぎり なく横溢するところへ行きたいことを告げて いた たぶん、青い花というものは、蜜蜂のため の色なんだ インディゴが自分の知識の構造を二点七次 元的になぞりながら説明をはじめた 彼によると、記憶というものは、あみめの 構造に宿る場合、その神経のジャングルの構 成次元にしたがうのだそうだ ノスタルジアに、構成の次元があるだなん てことは、かんがえてもみなかった 一部の、昆虫が紫外線を見ることができる のは、たぶん花の咲き乱れる熱帯がやはり紫 外線にもゆたかであることをも示しているの かもしれない ぼくの、しろい色素の無いからだはそんな ところに行ったら、たちまちピリミジンが大 火傷をして死んでしまうだろう 紫外線で光る色素は、またたいてい青の領 域にも発色がある インディゴのみぎの頬に、つうっと なみだがつたった あ、とアンドレが声をあげた また、彼らは同様に青に対しても感受性が つよいだろうかれらに受精と受粉をたすけて もらうために花は、 それこそなみだぐましい努力をして、紫外 線の領域でもかがやく青い色を開発したんだ 起源そのものは、藻類の時代にまでさかのぼ るんだろうけれども ただ、その青の発現のために必要な内側の 環境というものはかなり条件がきつく、一部 の植物では青のために必要な環境を準備する ことはできない いくら交配しても、いくら試験管の中で遺 伝子を人工的に入れても、薄紫の薔薇はつく れてもなかなか蒼い薔薇はできない たぶんかなりむずかしいんだろう その理屈は、こうなんだ 紫外線や、蒼い光はエネルギーが高く、そ れを放射する色素は、エネルギー的に異常な 状態になければならない 分子を「折檻」しなければならないんだ ぽろぽろとながれるほほの上のインディゴ のなみだを無視をして、かれのなかの機能が、 朗々と知識の構造をトレースしていた …かわいそうに 典型的な、男の子の奇形児だ… 自分の中にもある異常な傾向のおよそ倍の 病状が、この、ニルス・バナデスだった 有機化学の、世界にも保守主義はあるん だ それは、有機化学者の複数の権威が、官僚 主義に染まることに弱い、ということではな くて、有機分子の一部の構造は、その目的の ために人間の社会にも現れる保守主義の物理 を使っているということなんだ 雛菊の色から始まった植物の色は、なかな か青をつくることはできない 自然は、苦労をして、その方法を編み出し た 分子の一部に、いけにえにする粒子をアス テカのように選挙でえらんで、みんなでエネ ルギーの準位的にそ知らぬ顔をすれば、その いけにえの領域の絶叫が、ひときわ高くなる。 光で、絶叫の高い周波数こそが、青だ いけにえが蒼いなみだを流せば流すほど、 つぎの年は慈雨にめぐまれるんだってさ 青い色の状態のアントシアニジンのなかで は、本来男性であるべき、酸素の粒子がむり やり女性として陵辱されているんだ 周囲の炭素のほうが、電気陰性度は低いと いうのに、それがおこるからくりは、分子の 世界の保守主義さ 蒼穹の上空で紫外線をこのんで食らう三重 酸素のなかにも、おなじ倒錯がある 炭素の世界で保守会合の手段としてつかわ れる構造は、なれあいてきに安定な六角形の 構造だ 六員環同士が影で結合して、構造を作ると き、そのなかでは、銅線のように電気が流れ るけれども ただ、その役得と価値は、かれら保守同士 の同胞愛の中で融通されるだけに過ぎないの で、 かれらに電気的に接しているその構造の中 のはじかれた粒子は、かれら成長を放棄した 結果的な幼稚さによって、かわるがわる搾取 されなければならないんだ それは、ぶらさがっている保守構造が、重 ければ重いほど、はなはだしくなる おそらく、細胞内では、塩基性の傾向とい うものは、不景気なんだろう 塩基性の傾向で水中にでてきた金属の荷電 元子が、分子社会から電子という通貨をはぎ とるので、 あわれな酸素の原子は、ますますいじめら れるのだろう 不安定な状態の、酸素はいつでも、「蒼味」 をおびる 酸化水素の液体は、何十仏尺にもなるとク ストーの世界のように蒼くなる。 普通の物質なら赤くなるはずなのにそうで はないのは、蒼い波長でふたたびその光を蛍 光的に放射しているからだ 水がそれほどの厚みをえないと蒼くならな いのは、水が電子をはぎとられてできるオキ ソニウムが、うみのなかではほとんどないか らなのだろう 空が、紺碧海岸で青いのも、大気中の呼吸 酸素のためだとおもう 上空のきつい短波長でつくられる、酸素よ りさらに不安定な三重酸素は、普通の酸素よ り、もっと、蒼い 中心の酸素の粒子が、いじめられているか らだ ある物質がその特定の決められた色でかが やくためには、物理はその色よりもさらに波 長の短い、より青い色を吸収する必要がある より、かがやくために、より、蒼さでかが やくために、三重酸素は、そのエネルギーの 糧として、自分よりつよいエネルギーの熱湯 である有害な紫外線をこのんで食らうんだ 少なくとも、地上の生命は「蒼の時代」に 感謝しなければならないのかもしれない インディゴは、僕の首に、手を掛けた 青は、特殊な苦痛の色だ 思索の遊びかもしれないが くびすじに圧迫を掛ける むりに股間の根元をおさえこんだ陰茎のよ うに、じぶんの顔色が、想像の中であかぐろ くなるような血液の、逆流。 のどのしたの、気管を押さえ込まれている くるしさのそばで、割れ鐘が、意識の中で、 ひびく …気が、遠くなる このことを教えてくれたのは、実はマスタ ー、なんだよ みんなは知らないけれども、彼は努力家な んだ。色がなぜかがやくのか、そのことの情 熱の探求にたえうるほどの理学の教養があの ひとにあることが、最初はしんじられなかっ たけどね あのひとがいなかったら、家出少年でしか なかった僕が理学部になんか合格できなかっ たろうな… …彼は、本気だ。 ぼんやりと、想った あぶない、とはおもわなかった むしろ、うれしいようなあまずっぱい気持 ちが満ちてくる。 ああ、俺はいま、わらっているのかな… はだかのふたつの肩が、僧房筋にひきあげ られてかれのみみまで達している。 ひとさしゆび、こゆび、おやゆび。 それぞれの一対が左右からおれのくびを必 死ににぎりこんでいる。 まるで俺に最高の快楽をあたえようと、背 後からちぎれんばかりにダイヤモンドの陰茎 をしごきあげてくれたように。 ゆびからひじ、ひじから肩そして背筋へと、 インディゴのなかで腕のワイヤーをぎりぎり とひきしぼる、油にまみれた駆動装置がうご いているのをみているようだった。 石油獣の、インディゴ… そういう想像をしたことはないが、かれが 男性の機能美を具現したいのであれば、それ はあながち悪いイメージではない 涙まみれの笑顔が遠くなる… ちからを込めているので笑顔のくちの端が まくれて、しろい歯が、のぞいていた …きれいだな、と想った。 中南米について対話した過去の言葉がよみ がえる マゾヒズムは、立候補したものにはよいの かもしれないけれども まきこまれる孤児や捕虜にとっては、とん でもないものだったんだ 真のマゾヒズムとは、ナルシシズムと一体 化していないかたち意外には、ありえない だから、いけにえになることをおさないこ ろからおしえられてそだった子供以外は、ほ んとうはかれらの神は、よろこばないのだと いう また、おさない人格をあたためてとかしあ って、融合させることができる若い時代でな いと、たがいにそれぞれの自分自身というい けにえをあたえあう、心中なんてことはでき ないんだろう じぶんをうぬぼれることとおなじぐらいあ いての存在をたっといものとして、うぬぼれ るように不安定なこころのなかから愛するこ とができれば、 その、彼我の、美しい、ぐちゃぐちゃ。 ---------------------------------------- --北海19-- スカンジナビアンの友人が、こともあろう にアステカの文化にゆがんだあこがれをもっ ていることをはじめて知ったとき、アンドレ はみづからのみにくい臓物をみたような気が した 複数の要素を、平面や空間に投影したとき、 その統計図形は、たぶんアンドレとインディ ゴではその重心がずれていることになるのか もしれない しっとりとした、つめたくしかしあたたか ないまだ少年のなごりのあるはだが皮脂でと けあい、はりついても。 …アンドレにとって、インディゴはより書 生的なように感じられた アンドレは、インディゴが自分の嫌いな教 条主義のような客ともうまくおりあいをつけ られるのが、理解できなかった そのことについて聞いたとき、アンドレは ニルスの育ちのよさのためなのか、と理解し た この子は、といいかけてアンドレは自分の 経験が、実の年齢より精神をきたえていたこ とに気がついた …この子は、まだひとをうたがうことをし らないんだ、と。 書生は、より純粋にかたむきがちなので、 あぶないことがあるかもしれない アンドレは、飢えてすがりつくインディゴ のその傾向に、青のなかに赤をみることがあ った それは、危険なシグナルだった あおい光とあかい光は物理では別物なのに、 なぜ人間の神経は色彩環のなかで青い紫外 のとなりに、あかをみるのか すくなくともばけがくでは、メープルの赤 と、血液の赤を区別する。血の赤は、じつは 透明な緑色や、淡い青にちかい。 緑の豊曉を願うために、四つの五員環の赤 をささげた古代は、別に新大陸にとどまらな い うっとりとなまあたたかい殉教にたいする あこがれを吐露するインディゴに、 かれの特級の商品価値をみて、アンドレは たまに、じぶんの痛い過去をくらくたのしむ ために、めを閉じて、インディゴという白い 薬をもちいるじぶんを、 たまに、嫌悪した。 インディゴが、行程の半分すこし過ぎのこ ろの、とてもくるしい酸欠を、異教の神官に きりきざまれる甘い激痛をおもいえがき、い つもくるしさに麻酔をかけているのだと、告 白したとき、 アンドレは、つらくなった。 アンドレは、友人が中途で循環停止に陥ら ないよう、かれがはしるときはかならずあと をついていった。ただそれは同行するという 以上の意味をもたなかったが インディゴはとても速かったのであるが、 それはかれがたおれたとき、アンドレがか れをたすけるのにはとてもまにあわないこ とを意味していた アンドレは、いつも泣きそうな気持ちで かれのすがたを、追っていた。 ---------------------------------------- --北海20-- … ふたたび、一本だけ光る、売春房の蛍光灯 のうすぐらい夜に目覚めたとき、インディゴ のはにかんだ笑顔があった …ん 顔を軽く張られて、じぶんはめざめたのだ と知った まぶたをしばたたいて、おそらくはわずか 数分前におこったことの記憶をたぐりよせよ うとした。 そして、「三人目のカーマイン」になって いたかもしれないこの数分間の現実に、めざ めた理性が、恐怖に、すくんだ。 からだが、こわばり、性の仕事でもないの に、尻の穴がきゅっと固く、こわばった ごめん、おれどうかしてたんだ ふたりとも、予定も進路もあるのに …俺は、殺されていたのかもしれない、い や、殺されることにあまくしびれていた、俺 は、いや… …殺す気、だったの? じぶんの声がふるえて発せられたことに、 逆にアンドレ自身が、おどろいていた おびえに、甘えた声音が、まざっていた 全裸のみづからの、尾底骨が、シーツのう えで、あとずさった インディゴは、こたえなかった きみと、一緒に、ここで永遠をちかえあえ たらな、と一瞬おもってしまった …一瞬、だって?? それって、きまぐれって、ことにきこえるよ… アンドレは、自問した 胃が、あつくなった じぶんが、なまっちろくて、腕力がないこ となんかさ、わかっていたのにな 大丈夫だよ、頚動脈をすこしおさえつけら れたぐらいじゃ、 死にや、しな… 「死」? …にや、ってなんだよ! きゃしゃな美貌を、なぐりつけていた 手が、でていた 自分の意識が自分の無意識の悲鳴にふりむ き、 ふだんとおなじ調子のはにかんだ笑顔が日 常のそれとしてそこにあるのが、気に食わな いと認めた瞬間、 それは、憎悪となった 日常の笑顔で、ぎりぎりの、極限の感情を、 かたるのは文法がまちがっているだろう。 官僚の書いたえらそうな建前を、棒読みす るような口調で、命というものにむかってゆ るしを乞うなんて、ニールス自身をも侮辱し おとしめる、 そして、しんじてきた僕たちの純粋さをも、 しらけさせる、 なんという、愚鈍… なんという、傲慢!! 血液が逆流を開始した音が聞こえるような 気がした そんなごまかしがばかげていることは、お まえの名前が、いちばんわかっていることじ ゃないのか 手前の金くさりは、おかざり、かよ!! 麻酔から目覚めた、おおきな水棲動物のよ うに、自分は、全身全霊が駆る獰猛な不機嫌 として、恋人だったインディゴに、おそいか かった …殺されたこともないくせに、 …許せない、許すわけには行かない、殺さ れかかったことも無いくせに、 きさまにだったら、殺されてもかまわない とおもったのに!! 右の拳が、インディゴの左の頬骨を殴り、 左の拳が、かれの右の頬骨をきしませた。 はじける激情が、愛というなさけない抑制 のとがを弾き飛ばし、水泳のクロールでから だにおぼえこませていた左右の自動機械の回 路が、 永遠のように、きゃしゃな青年の頬骨を、 なぐりつづけていた これは、甘え、だった 暴力によって、アンドレは、彼に甘えてた いままで、どんな内側の深いどんな感情を も、だれにも吐露することが、できなかった から。 この、瞬間、アンドレはたしかに父親の息 子であった インディゴの、悲鳴が、こころにあまくし みわたっていくのが、きもちよかった 悲鳴の余韻が、うたのように強弱を持って 後を引き、寝室に、アリアを奏でた。 アンドレは、なみだを流しながら、恋人を なぐりつづけた なみだは、アンドレのほほを滝のようにつ たい、くりだす両腕のあいだから、必死に左 右に身をよじるインディゴのむないたに、ぽ たぽたと音をたててこぼれおちた インディゴの、病的にまでにしろい胸板と 朱鷺色の乳首が、なみだにぬれてきらきらと、 光った アンドレはなさけなさと、くりだすリズム に無意識に身をまかすことの混合に、からだ がとろけていくのを感じた アンドレの地雷を踏んでしまったことを理 解しはじめた、ニルスは、 意識で受け止めた驚きを、全身の肌でうけ とめる被虐のよろこびにすりかえることに成 功していた インディゴの表情が、次第に潤み始めた ガラス張りの調度がきしみ、 いくつかの紅茶の陶器が、八階から石畳へ と、窓の外へと哀しい音と共に落下した 騒ぎを聞きつけて、主人と店員が、八階の 扉をはげしく開けた くちもとから、鮮血を一筋流して、気を失 っている、ニールスを、放心して殴りつづけ ている、自分を、マスターが、渾身の力を掛 けて、ひきはがした やめろ、「バーミリオン」、これ以上殴っ たら、死んでしまう 俺は、なにもわめくことはできず、ただ、 四肢を振りたて、感情をあらわにするだけだ った。 おれは、ニールスの性の訓練の過去の夜と 同様、主人の腕の中で、あばれつかれて、 全裸で、気を、失った この宿の主人は、息子達の、「高熱」に内 心でおろおろする役目を、この晩は甘んじて 負って、 また、深夜にたばこをふかした。 ---------------------------------------- --南仏13-- トニとアンドレは、たがいの腰にやさしく おたがいの手を添えながら、うすぐらい寝室 に入っていった ---------------------------------------- --北海21-- 別れがつらくなるから、僕たちはこのマス ターのたてもので お別れとしたいけど、いいかな 駅までは、おくらないよ 別れの前の日の深夜の一時前、日付がかわ ってまもなく、アンドレの部屋のドアをノッ クしたのは、インディゴのほうだった 顔をみると、インディゴはアンドレのひと みをしばらくのぞきこんだが、やがて、意を 決したようにアンドレの胸のなかにとびこん できた 長身のインディゴにからだにとびこまれ、 アンドレは部屋のゆかにやわらかくくずおれ た。 インディゴのからだの重みこそが、アンド レにとってこのうえのないインディゴがささ げた、インディゴの態度としての最高の贖罪 であり、そしてそのうすいシャツ越しの体温 のあたたかいむねの筋肉の硬さと重みこそが、 アンドレにとって最高の精神の「いけにえ」 だった アンドレはとても傲慢に、しかしいまにも 泣きそうな気持ちで顔をゆがめながらその供 物を両腕で必死に、だきとめた そのまま、明け方まで、ふたりはたがいの 肉体を、渾身の気持ちで、激しくついばみ、 むしりあった。 情事のあと、かれはベッドにしずんだまま、 顔を上げなかった …みんな、死んでしまった 暗い声で、言った 僕が、強く生きようとすると、かならずま わりの子が、ついて来れない おしえても、ついて来れないことにいらだ つうち、そのうちに、気づいたんだ 自分の存在こそが、力学として、弟たちを、 踏みつけているのだと 強すぎる電場は、まわりに悪い影響を励起 すると、マスターは言っていたな 自分なんか、実証主義的にはまだまだだと 焦ってやまないのに だから、自分は大切なものを遠くにおいて おいた方がいいことは 理屈では、わかる すこし、間が置いた …でも、さびしい さびしくて、たまらない そんなことは、想像できない 手をのばせば、あまえられる、同格の人格 の体温とであったのは、はじめてなんだ きみとおなじで、僕には、家族がなかった。 きみを失うことなんか、たえられない ここに、 インディゴはみづからのひらたく、ほそい はらを両手で左右に手をそえて、ささやかに 誇示した うすいふたすじの腹筋は肋骨の下端のふた つの点からそれぞれしろがねの恥毛がのった 恥骨をめざしてはしり、 かたちのよい上品なインディゴの臍をいだ いていた 反面、一双の腸骨から肋骨へとはしるうす い羊の革のようなしろい皮膚は、そのなかに いっさい内臓をおさめてはいないように、 腸骨と肋骨の内部の輪郭をあらわにしなが ら、一対の双曲線の籐椅子のように、ふかく おおきく、窪んでいた ここに、ぼくはおおきな、巨大なかさぶた のような胎盤が、:かれはそのへそのうえを 左の手のひらでかるくなでまわした:できて いることを想像して、 ひとしれずきみとの情事をおもいだして、 夜な夜な右手でにぎりこんだ茎をしごき、両 の乳首を、なぐさめていたんだ そのかさぶたどうしで、僕達がべったりと 腹が癒合したあわれな双生児のようにね ぼくたちは、精神の内臓のいくつかの部分 を、共有してしまった 内臓を無理に切り分ければ、ぼくらのどち らかは、死んでしまうだろう 僕らが、このきゃしゃな腹筋をぴったりと あわせることが、こんなにも安心できるのは そこに、このぶあつい胎盤を通じて、ふとい 複数の血管がかよっているからだよ これを無理にはがされたら、産褥で、ぼく は死んでしまう。 あの晩、なりゆきによっては、きみを殺し て、そのあと自分もあとを追うことになった かもしれない ただ、そんなにはうまくいかないさ なさけなく、自嘲した 判例時報なんかに、心中であとを追えなか った情けない被告の例なんかは山と載ってい る ぼくは余計なことを知りすぎているから、 しばしば決断が遅れる きみを殺せなかったけど、 きみを殺さなくてよかった きみに殴られて、よかったよ、自分が間違 っていたことを、マゾヒズムの中で確認でき て、反省が、とても、気持ちよかった …僕も、人間のくずなんだ ああいうところで感情を爆発させることは、 僕にはできない なぐられながら、僕はきみが、とてもうら やましかった …南仏でも、伊太利亜でも、どこへでもい っちまえ インディゴは、声を押し殺して、背中をふ るわせていた * みじたくをおえたアンドレはかばんをドア の前におき、 寝入ってしまった、いとしかったしろいは だかの背筋に、そっとくちづけをした。 ほのかに汗の匂いが、した。 アンドレはくるしさをおしころし、渾身の 力でドアのノブを、引いた。 ---------------------------------------- --南仏14-- トニは、 女の子のひとりが、ワーゲンの後部座席か ら、しずかに尋ねたのにこたえた アンドレを愛しているの? …わからないよ、アンヌ いつも陽気な歯切れのよい彼が、のりのよ い会話というある種の祝祭の仮面のしたから、 静かに言った この車中には奇妙な静けさがあった 香草と柑橘の香りのテルペノイドがまざっ た食用油とビネガーが期待と、背徳の共犯者 としての沈黙として、いったんは攪拌はされ た懸濁は、ゆれながらレモン色のあぶらが、 液体でできた巨大惑星の合体と融合として分 離し、車体のゆれに連動したそのあぶらの境 界面が、 不飽和トリグリセリドの粘性で、けだるく、 ゆっくりと波打ち、やはり背徳とその期待が うしろめたく、またけだるかった。 車のハンドルを転がしながら、きみだって、 もし結婚して、毎日が忙しくなったら、そこ にあるのは満足な達成感のようなもので、そ れはたぶん愛そのものじゃない そういう意味で愛ということを考えるのは、 たぶんナンセンスだな いいわけめいたことを語っている、とトニ はそれを自覚した横顔でそのことを言った すくなくとも、僕は、彼をすくなくとも、 男として見ていないことは、たしかだ あのけなげさは男のものじゃない だから、 かれは間を置いた 奴に僕は欲情するんだろうな 女の子はみな、だまった そう、すこし静かに外の夜景でも眺めてい たほうがいい 君たちがこれからながめにいくものは、た ぶんきみたちのいままでの人生から見たら、 異常なものかもしれないからね ---------------------------------------- --夜学2-- 卒業の年の、晩秋、アンドレは例の理学の 先生に、自分が性の虐待を受けていた事実を 告白した 理由は聞いて欲しかったからで、 理由は虐待で変わってしまった自分の人格 こそがいまの自分であることを、 みとめてもらうことで、受け入れてもらう ことが、無意識の愛情の飢えという苦しみの 告白であった いまからおもえば、そこで、服を脱ぎなさ いといわれたら、ためらいなくアンドレはそ れにしたがっていただろう。 現実には、先生はすこし眉根をよせていた が、大変だったねと肩をぽんぽんとたたいた にとどまった アンドレは、先生はもっとおどろくのかと 想ったが、その印象はアンドレの中で二つに 集約されてメモされた ひとつには そのような悲惨があったことをある程度予 測していたのであろうことと もうひとつは、少年愛好の行為に対する嫌 悪感が先生になかったことだった 前者の質問の答えだ、君のバランスの崩れ た吸収に対する飢えは、おいたちになんかあ ったことを想像させる 後者への答えは、 少し間がおいた そういう需要や欲求があることは、普遍的 なことだから、ね いい悪いのことじゃない、それは統計に近 い概念だ 先生は銀縁のめがねを鼻に押した 先生は鼈甲や黒ぶちのめがねが嫌いだった わたしだって、わがままを伝統と勘違いし ている伝統学院で、五人いた恋人のうち、独 りは年下の後輩だったよ もちろん、男の といってわらった わたしは、もてたからね、信じてもらわな くて結構だが きみは、と話題を変えた 自分では気が付いていないのかもしれんが、 物理や戦闘スポーツに興味を示さず、生化 学や園芸に興味をもつ自分に疑問をもったこ とはないのかね きみの志向と発想には、たぶんに女性的な ところがある だからおなじ教科選択に女子と同席するこ とがおおいのだよ ただ、その性質は、たぶんに繊細さにかか わっていることだけで、 空間的な能力は男の子の能力がそのまま残 っている 大学にはいかないのかね 本人の意思が尊 重されなければならないのはもちろんだが きみのようなたまに悪趣味にかたむくハイ ブリッドは、研究者や経営者にむいていると おもうんだが 同時にいろいろなことが見える人間はどち らかというと、 またこういういいかたをしていいのかどう かもわからぬが、人に使われるより、使う側 の人間だ きみが、ここでいわば士官候補生のレール からはずれるのは、 人間の資質から言っても、たぶんに、もっ たいない アンドレは、ふとこの人が父親だったらよ かったのに、とおもった …自分にはあまり出世のような「とんがっ た」欲望は少なくともいまはないんです 現実的に、自分の稼ぎでおなか一杯食べ、 雨露しのげるところで誰にも殴られないで夜 ぐっすり眠りたいだけなんです たった数年前まで、それさえも夢でした いまやっとこの段階に達したとはいえ、社 会全体をいきなり見渡してみろ、 という問題にはまだ、自分には想像力の訓 練がまだ、できていません …わかいうちでないと、まにあわんことも あるんだがな 残念そうに先生はひとりごちた ---------------------------------------- --南仏15-- …鳥は爬虫類の恐竜の段階を通過してから空 を飛ぶようになったから、 夜の窓のこちらがわで、記憶のなかの恩師が 紅茶を飲んでいた 子供と親の愛の紐帯の本能ができてからほん とうは気の染まない空の世界へとおいやられた んだ 空を飛ぶことは大変なカロリーを必要とする し、たえず物体が視界を後方へと飛び去ってい く生活では、おちついてものをかんがえること もできやしない 鳥の心が、われわれとすこしちがうのはその ような理由があるんだよ …彼らのこころは、おそらく愛情と反射がお もなものだろう 哺乳類には、こころの進化の段階が二段階あ って、有袋類にちかい時代の哺乳類と、より寒 冷乾燥が進んだ時代の哺乳類だ うさぎや、いたちの類はすこし前者の時代に 近い。うさぎの心は、たぶん僕達とはある程度 ことなっている 鼠には表情があるが、兎にはとぼしい、とお もったことはないかい 寒冷化が進んだ時代は、愛情を持って子供を そだてなければ滅んでしまうし、なかなか食事 にありつけないことがしばしばになると知恵と 記憶が発達しなければ生きていけなくなるよう になった 新生代の後期に、知恵と愛情が深まったのは べつにわれわれの先祖だけではない たとえば、恐大猫のなかまは、頭蓋が左右に おおきくなった 当時は、哺乳類世界がみないちように、知恵 と愛情にむかって膨張し、しかしまえの時代よ りは食料は少なくなった。 * アンドレは少女達に出すつもりの牛の肉の 塩漬けを納戸の角張ったおおきい容器からつ かみだし、軽くたたいてほぐして、その繊維 を切り分けていた 塩漬け? かつて、遠い記憶のむかしのロンドンで、 中国人の青年がへんなことをきく、という顔 で質問をききかえした 牛の肉はじつはまずい。 そのままではうまみもなく、また加熱をす るとこちこちになってしまうので、多くの地 域では豚の肉に文化がかたむいてしまうのだ アンドレは牛の肉をうまくたべることのむ ずかしさを、キチンにたつたびに感じていた 結局のところ、牛の肉の調理はできれば生 のままたたいて繊維をやわらかくし、 弱火で長時間煮るか、オートクレーブのよ うな加圧釜で瞬間的に、肉の繊維をばらばら にして、 そのあいだにいわばソースのうまみをから めるしかない 新大陸の企業が、牧場丸ごとの牛肉をおし げもなくチャンクにし、つなぎの野菜とまぜ こむのは牛の肉の性格を知っているものにと っては、それもしかたがないだろうな、想え るものであった もともとは、肉のサンドイッチとは、骨髄 肉などのくず肉でつくったドイツの料理なの である 食材とはいえ、アンドレは牛肉には、合成 繊維と格闘している気がしてうんざりしてい た そのときは長逗留とはいえ、アンドレの身 分は旅行者だったので、時間のかかる塩漬け などはできるはずもなかったが、東洋の一時 的な肉体関係でもある友人に、東洋の保存食 についてきいてみようとおもったのである 濃い塩水をくぐらせてできる豚のベーコン のうまみからの連想で、 牛肉でも長期貯蔵をすればその蛋白がうま くこわれて、うまみとして熟成できるのでは ないかと * 青年はこたえてくれた 欧州にはじつは魚で工夫した経験がない、 と。東洋では保存食とはじつは魚の保存から はじまっているのだと 亜細亜のような温暖な大洋に面している地 域では春先に微細な藻類が海面に大量に発生 するので、小魚や、それを餌とする中型の魚 が大量に取れるのでそれを閑散期にまで保存 するために塩漬けの文化が始まったのだとい う 干物などはいわば魚でつくったベーコンに あたる、と これはどちらかといえばエツ、とまだ戦争 がくすぶっているベトナムを古い言い方でい った、の文化だろうともいった 魚から発展して、野菜、肉、豆などで半液 状の調味料はいくらでもあるけれども、 と努力家のきつねめの青年は話題を変えた 内陸では、肉は干し肉がおおかったとおぼ えてるんだが… モンゴルはむかしは海だったから岩塩はと れるから比較的高価とはいえ、塩漬けをしよ うとすればできるのだけれども、塩漬けはど うしても水を帯びるので、交易上は、おもく なってはこびにくかったとおもう むかしは軽い容器などなかったから、いれ ものといえば重いかめになったはずだ 重いのならそもそも、塩漬けではなく、家 畜をそのままいきたままはこべばすくなくと も鮮度はたもたれる ドイツだって秋にソーセージに「する」の は、保存よりは、冬の分の餌を節約するため だってきいているけど また村落ではもともとどこにでも家畜はい たからそもそも流通としてやりとりする大規 模な需要はない その意味では、特別な調味料として別途作 る場合を除いて、うまみを増すために保存す るという発想が、あったかどうか、 それに、 といって言葉を濁した 塩漬けを縁起が悪い、といって敬遠するひ ともなかにはいるんだよ、とつけくわえた 塩漬けは、罪人の死骸を保存するのによく つかわれたんだ 僕の土地ではないが、中東の歴史で緑と黒 があいあらそったとき、黒の側の王が敵の貴 族の死骸を、「塩漬けの間」に、ずらりと並 べていた話は有名だよ 中国では、古代の哲学者の弟子にAとBと いう若者がいた Aのほうは、不遇で赤貧ながらも貧乏をた のしみながら晴耕雨読の生活をして、その師 匠からほめられたんだけれども、 Bの青年は、政治の枢要に入り込み、冷徹 にその才気で周囲を批判した挙句、最後は君 の所のソクラテスのように、嫌われて殺され てしまったんだ 僕等の文化では、先祖を敬うことが人間の 重要な徳になっているのは、 詭弁でもある方法論として地域国家よりも 血族連帯でしか生き延びられないシビアな紛 争が日常茶飯事の土地だからしかたがないが、 ともかく先祖や血統を大切にするぼくたち の文化では、死人に墓を許さないことは最高 の侮辱と制裁なんだ Bはどうなったかというと、これになって、 青年はサンドイッチにはさまれたベーコン を指差し、 見せしめのために切り刻まれて、皆に分配 されたんだよ その暴君の行為に逆に皆は、その人の肉の ベーコンを足で踏みつけたりして、忠誠を誓 うしかなかったと聞いている 哲学者の師匠はそれ以来一切塩漬けを食わ なかったそうだ …僕達はある意味神話を持つ君達がうらや ましいよ 珍しく、きつい青年が弱音を滲ませた 僕達の大陸はおおきなゆるい擂鉢のような もので、その中央の重心では背後のおおきな 重みの圧力がくわわるがゆえに、中央の皇都 ではいつも残酷とみせしめが絶えたためしが ない 聖なるものが成立しようがないんだ * 道の途中におおきい池があった 戦時中、工廠と弾薬庫があったへんぴな田 舎にその場所はあった 池は、輸送中にでも誤爆したか、爆弾がつ くったおおきな穴であった 砂利と舗装が交互に交代する道は、そのの びてきた、直線の道程をそのみずぎわであき らめ、半円の円弧としてむこうがわにまで迂 回をせざるを得なかった 気分が悪くなるだろうとおもったので、車 はつかわなかった 列車からバスにのりかえ、 ひるをすぎた午後のけだるいやわらかなひ かりが、まるであの世の極楽のようにやわら かく、アンドレを暗澹とさせた 午前と夕方以外は一時間に一本しかない運 行の停留所で降りたとき、午後三時前の太陽 は機械油の色をしていた オリーブ油の色ではなかった。 アンドレはトニと親しくなってしばらくし たあと、地域の屠殺場の場所を聞いた つれていこうか、というトニに、アンドレ はそれをことわった そのような自分に対する考えは自分ひとり で確かめなければ意味はなかったからだった その場所は、水のほとりにあった そのようなおしつけられた労働は、ひとび とがその存在そのものを嫌い、また大量に出 る牛の体液を処置するために排水が確保でき ていなければならなかったからである 絶叫は外部から実に巧妙に遮断されていた のでそれは刑務所と同じであった 絶叫の現場には許可なく入れなかった 湯気の立つおおきく、巨大な牛の開きを柵 のそとからながめ、かえりみちに、これから 順番を待つおそらく人間で言えば高校生ぐら いの若い牛が不安にみちたあどけないひとみ で車からおろされているのをみた …傷つくことを覚悟してきたのに アンドレは不満に想っているじぶんの傲慢 さに気がついた 管理するために、本来の粗暴さを遺伝的選 抜でぬぐいさられた牛にとって、麻酔なしの 殺害はおそらくゆるせない裏切りととらえら れるだろう。 先生によると、野生とはこころの芯からわ きあがるものではなく、あどけない無垢の上 にうえからかぶさるものだそうだ 遺伝的に自然の選抜の結果粗暴な傾向の強 弱はあるとはいえ、いつくしんでそだてれば ライオンだって手のりにんる また逆にどんな温和ないきものでもひどく 扱えば飼い主の手に噛み付くようになる そこを上手に連立方程式のように連結して、 もっとも柔和な品種を皆殺しにするのだ もしうまれかわりがあるとすれば、すべて の人間は家畜にうまれかわることだろう すくなくとも、人にとって現場や辺境の痛 みをわすれるだれのこころにもある弱さとい う閉鎖主義というものにはできるだけ距離を おくべきなのかもしれない 若い牛の背中をみおくり、帰りのバスにの るころには、空に星が出ていた 牛のたそがれは、明日のじぶんのたそがれ のように想え、 アンドレは、なにを、えらそうに、とじぶ んにむかって歯噛みを、した。 ---------------------------------------- --夜学3-- 高校の同窓生達が、ささやかな就職で社会 にちりじりに散っていって そして夜間制独特のリアリズムはもう彼ら が二度とは会わないことを意味しているころ、 とりあえずアンドレは自分の孤独な未来に ついて考えることしかなかった おそらく、今にして想えば、先生は自分が 孤独で戦いつづけるかもしれない苦労に満ち た来るべき道程に、自分が負けてしまうこと を親心のように心配していたのかもしれない しかし、アンドレは猛烈に傲慢だった 先生が言ったようにゲーテが、青年とは実 験という存在であるといったのが正しいのな らば 失敗するかもしれない自分の人生について、 たとえば奨学金のようなものをあてにする気 が起きなかった 奨学金の概念は、まちがっているとアンド レは直感的に感じ取っていた 一万人の学生が、ひとしく成功しなければ、 それはすくなくともそれはビジネスとして成 り立たないではないか 大学の、浮世離れした形而上学の講座に借 金してまでも、学費をつぎ込むことに意味を 見出す試みは、すべて残念ながらかれの中で ことごとく失敗した 大量の知識と、すくなくとも若干の知恵の 亡霊と残骸に触れるためには珍獣どものわが ままな講義ではなく、書籍と古典のほうが少 なくとも十倍は確実である かれは、身近に、英国人やドイツ人の友人 がいれば、この考えはここまで先鋭化しなか ったかもしれない しかし、それはアンドレにとって、時間軸 上の孤独をひどく強めることになった 活字の孤独とは数百年の昔と、数百年の未 来にまたがるのである 深まる孤独の仲で、彼自身のナルシシズム は彼自身が自覚している以上に、病的になっ ていった それは虐待の記憶と結びつき、異常な人格 が闇の中で菌類の白い枝葉を伸ばし始めるの にいたるのである 病膏肓に入る前に、世間の平凡だが平和な 親とその子供のように、大学はともかく職業 訓練施設や徒弟制度をくぐっていれば、 おおきな花は開くことはないかもしれない が病的な苦労はしなくてすんだかもしれない だがしかし、かれは結果的に回り道になる かもしれないそれら常識的な訓練校というも のを嫌った そう、アンドレはその意味で真に、馬鹿な のである また、彼は、自分よりめうえの人間に自分 の無意識が嫌悪の牙をむいていることに気が 付いていなかった 既存のレールとは、恣意に操作されている 牧場主の柵なのではないかと、虐待を克明に 覚えている彼の無意識はつねに疑っていた 教師どもは、いまは肉牛である生徒に愛情 たっぷりに世話を注いでいるが、いざひとた び彼らを社会に「出荷」したあとかならず卒 業生におとずれる屠殺場での絶叫は 教師はそこに立ち会う義務はないから、日 常の意識からは、ほぼ完全に忘却することが 可能なのである では、どうするか 使われる人生では、いずれ廃棄が待ってい るのが落ちであるから 仕掛ける必要がある そのために必要なものは資金であり、それ は現金であった また、それは融資であってはならない 世間経験のないアンドレや似たような立場 は、融資を受けてはいけないことは、アンド レも気が付いていた 失敗する危険が多いのに融資を受けること は借金を続けて確率の低いギャンブルをする ことに似ている リアルをしらないものにとって事業融資と はまぬけ以外の何物でもない アンドレは労働をして、その時間のうちに いろいろな計画を練ることにした 戦略、とは出世ではない ---------------------------------------- --南仏16-- 寝室の北側の壁は、おおきなミラーになっ ている 僕らはたがいの腰骨に両手を置き、口を軽 く吸ったあと、僕がベッドに腰をかけて、トニ のベルトをはずし始めた ミラーのむこう側で、息をひそめる気配が する 赤いブリーフに、口を添えて、熱い息を吹 き込む これは飾り窓でおぼえたわざだった トニがおおきくなったのを見計らい、下着 の開きからかれの醜くゆがんだ太い肉の茎を とりだすと、舌をそのうらの筋にはわせ、 そして大きく口を開けて、そのきついにお いにまぶされた、有機的な内臓のような脈打 つ器官を、口に含んだ まだ若い頭とハンサムな顔が、滑稽に機械 のように前後して、アンドレのやわらかい黒 い髪が、トニのあかるい色の恥かしい繊毛に からんだ 以前は、普通に、寝室にまるいアジアンな 小さな籐椅子をならべて、ながめてもらって いたのだが、興奮してきた少女が、服を脱い でベッドに揚がってきてしまったので、 アンドレが業者に工事を頼んだのだった 今は、少女達は、ガラスのむこうで、珍獣 どもの交歓をみている、はずだ そこは、小さな側廊だった 家を南北にはしる太い廊下から枝分かれし た小さな廊下で それは北の浴室とこの寝室を南北に隔てて いた その証拠に、この側廊の東側の突き当たり のドアは昔の勝手口となってそとの浜に通じ ている 情事のないときは、単純な塵介の通路だっ た いわば、女性と男性を複数の観客と、また 複数の俳優に分けるために ・側廊の入り口にちいさなドアをはめ、 ・寝室側の壁を壊し、連れ込み宿の業者が使 うおおきなマジックミラーを貼りこんだのだ 工事は安いとも高いともいえた おおきいとはいえ、テラスを作った工事に 比べればガラス自体の単価はそう高くはなか った 表面の半透化の加工を施したガラスが部材 としては比較的高かった 半透透過のフイルムなどそう複雑な施工で はないので、自分で作業着に着替えて自分た ちのための夜のエロスのための作業をまぬけ に実行しようかともおもったが、 雰囲気を重視するだろう女性のために、仕 上がりを考えてやはり業者に頼むことにした 高価だったが、フイルム施行ではなく、真 空スパッタリングのガラスで注文した 業者も、何の目的で使うかうすうすわかっ たらしく、ただの一回の薄笑いの目配せで、 きちんと工事を完成させてくれた その恥ずかしさは、アンドレにさわやかな 両肩の高揚と下腹部の内臓がうずく期待をも たらして 日常と業務に張りを出すこととなった アンドレは、変態であることをみづから、 とても大切に想っていた ---------------------------------------- --南仏17-- トニの下着とスラックスをすべて脱がせ、 その尻を抱き、陰茎と睾丸を、かわるがわる、 含んだ 鏡の向こうでは、女の子達がたがいの両手 を握り締めて、僕たちに見入っていた トニが僕の白いシャツのボタンを、うえか ら順々とよどみなくはずし、僕の胸に手を差 し入れる ああ、いい… 脱ぎかけたしろいシャツを、両の腕にまと わらせたまま、僕はトニに乳首を吸わせてい た 彼女達は見てるかな、いたずら心にけしか けられて、僕は、ハーフミラーにほほえんだ。 いつか僕は、全裸に剥かれて、トニの深い 愛撫に、若い緑の肌をもつ、とねりこのよう な緑色の枝々の手足をシーツの上で、快感に 泳がせていた 女の子のひとりが、側廊の丸い椅子の上で、 自分のスカートのなか、に、右手を差し込ん で、情熱的に動かしていた トニが、青いシャツを羽織ったまま、僕の 両足を持ち上げた 用意された潤滑を、トニによってじゅうぶ んまぶされた僕は、 猛り立ったトニに、上から、串刺しにされ た。ふかくふかくまで、僕の小腸はかれの武 器に圧迫された。トニのものの先端が、直腸 の奥を越え、結腸のなかに、もぐりこんだ圧 迫感を、感じた。 僕は快感を深めるため、わざと演技で声を あげ、そしてそれが現実の快感につよく混ざ りこむのにうちふるえた アンドレの美しい横顔から、恐ろしい低い 唸り声が断続的にながれはじめた 骨盤と、脊柱が、トニの攻撃によって、縦 方向に、ふかくしなる 胃の腑の裏側に、攻撃の波があたるのがわ かる…。 トニの先端は、その体制で、僕の臍よりも、 奥の位置にあった。 あの、あかぐろいてらてらした、濡れた先 端が腹のなかふかくにあるとおもうと、僕の 意識がこわれていくのが、わかった。 う、う、ううっ…、 うめいた。 うむ、うむ、ううむ… トニも暴発しないように快感をこらえてい たが、 んん、ん…… 僕の腿をひざがわからかかえる腕に力がこ もり、身をおおきくよじったかとおもうと、 んんん、ん……。 僕の胎内の奥に、あたたかい液が少量だが、 ほそくきつい圧で、 ちゅー、ちゅっー… とそそがれ、それが、結腸の奥のほうまで、 自分の体温よりも熱い他人の熱の液として降 りていく… その瞬間ののちも、しばらく僕の中でうち ふるえるトニの器官の、うごきが止まらなか った。トニの身体はトニ自身の意識の外で、 無意識によじられ、つづけていた。 僕はあほうの快感のなかで、ひとつだけマ ジックミラーに押し当てられた、少女の小さ な手のひらのすがたを、あわれみをもって、 せせらわらっていた トニが身を引き、僕のからだをだきおこし て、かるくたがいに抱擁した ていねいにおたがいの口を吸い、なめらか に舌をからめあった 僕は受け入れて呆然とし、 彼は、放出したので、しばらく股間の機能 が使えない。 僕はトニの首筋を舐め 胸を舐め 乳首を含み 腹筋の強い筋に、背筋に腕を回しながら舌 をはわせたあと、 自分のアヌスから出たばかりの、ぬらぬら とひかるトニの男根をふたたび、ふくんだ トニを背中をシーツに横たえ、あおむけに させたあと、怒張が失われ硬い芯だけが残っ た男根を、舌の上で転がして、口の中で口腔 の粘膜の感触と自分の体温を、トニの中心に 与えた ほどなく、トニは、自身がゆっくりと硬さ を取り戻し脈打つようになるとその身を起こ し、僕の左の膝を取った そのまま僕は腰をすくいあげらげられ、ア ヌスをトニの舌でなめられはじめた ひろがっていた、菊壁がまた、やわらかく 舌の侵入を、この夜の中で、ゆるしている。 ゆるゆると、僕の肛門の、行為のあまえに すっかりちからをなくした後ろの「リング」 は、 トニの強い舌で、その内縁をあまりにかん たんに、ぐるぐると、やわらかな力を加えら れつづけ、甘美な悪戯にけがされつづけ、う けいれるためのように、しかたなく、緊張を 奪われ、 しだいにだらしなくつねにくちをひらきは じめた。 回復し、いきり立ち始めたかたくたくまし いトニを僕は必死に口腔にふくんでいたが、 しかし「後ろ」からのトニの舌のふかい攻 撃により、骨盤のうえを包む僕の肉の感覚の 痴呆のため、僕はそのいとしいグロテスクを ときどき口からとりこぼすようになった 僕は、やがて小さな悲鳴をあげて、トニの 攻撃からのがれるために、身を起こした 一瞬トニとめがあうと、トニはにやりと笑 いシーツにみづからの腰を置き、横たわり、 僕にむかってあごをしゃくった。 両足とも、トニの右側のシーツにいったん は身を引いた僕は、トニにむかいあうかたち で、その腰をまたいだ がたんっ ガラスのほうで、椅子をうっかりけたおし た音がをさらに僕を淫蕩に、させた 淫蕩は、膝の裏側から、尻の皮膚をはしり、 背筋と臍の面にまで及んだ トニの凶器にゆるみきった、みづからのリ ングをあてがい、ゆっくりと膝と尻と腿をシ ーツのうえをすべらすようにひろげ、太い槍 を僕は、自身の内臓につきさす。 …ああ、あ…あ… 声を意識して、おおきくあげた 自然と咽喉は反り、みづからの重い黒髪の あたまはうしろに垂れてゆく 背を反らせ、腰の角度とみづからが与える 体重の案内をうかがい、また、トニをS字結 腸のなかにおさめようとこころみる おおきなトニが、ふかぶかと根元まではい りこむことができるとき、 それは、その陰茎のまるく、あかくかがや く頭部は、下降結腸のなかに充分に、おさめ られる トニは、じゅうぶんに長く、そして太かっ た。僕は、両足のシーツのうえでとおくはな れた一対の、小指までわななきがはしるのを 感じた。 トニが攻撃して、 僕のからだが、揺れていく 強制的に、揺らされる。 快感の中で、じぶんの頭部がぐらぐらと、 ゆれて座らない 視野と焦点がさだまらず、めまいをさけよ うとまぶたをとじると、逆に内部のトニをよ り意識することになってしまい、僕はそれに とらわれて、内側の、内臓の快楽から、のが れられなくなってしまった。 尻の肉に緊張がなく、骨盤と腰椎に緊張が なく、 肩からだらしなくだらりとたれる両の腕は その十本すべての指先にいたるまで緊張がな かった アンドレ、締めて。 僕の首筋に顎をおき、トニがささやいた 呆けていた僕は我に返り、視線をトニの瞳 に戻すと、その首に両腕を絡めた よくもわるくもものごとを深くつきつめな いトニのいまのひとみには、したなめずりを する男の欲望が、うつしだされていた あいてが感じている、じぶんに対する、征 服欲。 僕は、ふるえて、はらわたをささげるため にじぶんの腕をトニの肩にのばし、その骨の 肩をつかんだ。 トニの股間の、雄のかたいふとい腕が、腹 腔にふかく差し入れられていて、たしかに僕 の内側のそこにあった。 僕は、みづからの膝を閉じ、腿を高く上げ るようにすると両の脛とトニの首筋に組んだ 両手を支点に、自分の体重をトニのうえに、 くりかえし、くりかえし落とし始めた。 僕も、トニもうめきはじめた …おおきいトニが、 腹腔のなかを掻き回す…… こどものうでほどもあるトニの屹立の上に、 自分の体重をうちつけるとき、自分の内臓が 破れるかもしれないうすい恐怖を、 恐怖をうけいれる歓喜としてじぶんに強制 しながら、 すべての腸や胃などの六腑にのみならず、 横隔膜まで介して肺や心臓までゆさぶられる ことをあじわっている、僕がたしかにそこに いた。 トニの側は、自分を締め付けながらはげし く、その陰茎の皮膚を擦る僕の内側の粘膜の 熱さに、また限界がひたひたと押し寄せてく るのを感じていた おねがい、ぬかないでね…… 潤んだ瞳で、トニの顔をみつめるアンドレ は、かみくだきたくなるうまれたてのやわら かい桃色の仔うさぎにみえた あぎとをかみしれば、ながれだすあたたか い血と、にがい肝をあじわうことができるだ ろう 食欲に似た、征服欲がいきおいと、なって トニの肩と背筋を、駆動した。 がっしりとつくられた、骨盤からそそりた つ、黒い太い鉄の棒が、僕の肝のかたまりを、 かきまわしていた… * ガラスのむこうがわで、こまかい音がする ベッドがはげしくきしむ きしむ音が、寝室にひびきわたる 僕は、くちもとに歓喜の表情をうかべなが ら、おのれのあごをうれしそうにひらいて、 トニの首にしがみつきながら、 はげしく興奮したストロークで、はげしく、 跳ね上がる 腰椎と骨盤をはずませ、全体重をかけて、 みづからをくしざしにすることをやめない。 ああ、いい… 内臓が踊っている… おなかのなかで、僕の内臓が… うう、うううう… トニが耐えられなくなり、そしてトニがじ ぶんの中でこらえきれず、するどいしなりの 跳ねを打ったのを、じぶんの胃の裏側で感じ た ああ、ああ、ああ…、 …いま、でて、い…、る…… 結腸の壁は想像の中で、とけ、くずれ、僕 はじぶんの若い青年の羊のうねうねとした小 腸で、じかに脈打つトニをもみこんでいる、 マゾヒズムに酔いしれた 快楽の洪水に意識がうすれかけた僕はおも わず手をトニの肩から離してしまい、背面の シーツにひっくりかえった トニは僕のほそい臍の腹の両側面を、ごつ い両手でささえ、 そのトニの尻が、振動する射精の波の緊張 で硬く、林檎のように、ひきしまりつづけて いる 僕はじぶんのほそい両腕が、シーツのうえ で、ちからなくさざなみにふるえているのを 感じていた 快感からの強制の制動がかかり、意識はし びれの波の下で放心し、その視点は定まらず、 アンドレは、天井のむこうの、どこかはるか な過去や、とおくをみて、いた。 アンドレは、両足をのばして、シ−ツにす こしの立てひざでよこたわり、そのほそい腹 と、可憐なかたちのよい臍は、天井をむき、 電球色の照明にかたちのよいうつくしい大理 石の彫刻の絶妙な陰影をつくっていた その横で、僕からからだを離したトニオが、 かるい四つんばいで、自らの荒い息がおさま るのを、背中をまるめて待っていた すこし休息が必要だった 少女達を放置して、ふたりはシーツに並ん でよこたわった 「鏡の間」には別に鍵はかかっていない 腹が減れば、自由に店舗まででていくこと ができる それに、いまの僕は、ギャルソンではなく、 俳優だった 俳優は性を演じていればいいのだった …最後は、ぼくをいかせてね、ぼく、まだ いっていない… アンドレは、興奮すると、どんどん甘える 子供に退行していく そのことは、こいつは自分で知っているの か 怜悧に切り込む、しらふの顔を知っている トニは、やや不安になった まあいい、きょうは、こいつをいかせれば、 「お勤め」はおわりだ 行為さえおわれば、また、怜悧でしかし笑 顔の似合うあのアンドレに、また会える。 二十分ほど、息を整えたあと、性のゴング を鳴らしたのは僕のほうだった ふたたび、トニのからだの前面に刺激をく わえ、トニのすべての男性をその気にさせて いった 今度はトニを、ふたたびエメラルドのよう に硬くしたあと 僕は、シーツに四肢をついた 来て… トニが覆い被さってきて、僕はうめいた 攻撃を連続して爆撃する、トニのたくまし いからだに僕は必死の動きで、腰と背中を押 し付けた 胸をはがいじめにし、はげしく胸を愛撫す るように懇願したあと、かれのからだが後背 位から、すこしずつトニのほうへとすくいあ げられ、 僕自身は、じぶんを激しく慰めるべく、じ ぶんの細身だが大ぶりの男性自身をみずから 握りこんだ 強いストロークで、前後にじぶんを鍛え上 げる僕の腰と両腕の動きと僕の 上半身を絞り上げそしてそれに僕の背面から しがみつき、はげしくうちつけるトニの腰の 動きが一体になって、おなじリズムになった 今度の主導権は、僕のほうだった どんどん快楽の階段をのぼりつめ、からだ の緊張も、陰茎から骨盤すべてにいたる快楽 の圧力も、すべてが堅く、するどくなってい く …あ、いく…イく… 僕は、今晩初めての、大量の精液を噴水の ように、射出した。 わかい液体が、弧を描いた。 ガラスのむこうの、おんなの子たちは、 息を呑んだ。 僕の直腸が、僕の射精装置にひきずられて、 はげしくみもだえて、うねった。おおきく硬 いトニのまわりに必死の収縮をけいれんとし て起こした。 若い肛門がトニの太い樹木の根元をくいし め、歯をたてた。 (た、たまらん…) トニは、矢も盾もたまらず、 僕の射精がまだ完全にはおわらないうちに、 トニはより貪婪に僕をむさぼろうとした トニ自身を、いまだ連続的にきつく食い締 める僕の後ろを、ひとつの支点にして、トニ は自分勝手なだけともいえる情熱的な衝動で 身をずらした 僕の腸骨をささえていた左手はそのままに、 右手でかれの右肩をひきよせ、かれの上体を ひきすえて、のりあがった。 僕の背の若い貝殻骨の下に、その無骨な大 きな両手を置き、トニは自分の上半身の体重 を僕のうえに、掛けた。 いまだ射精の快感に酔っている僕の、体が、 つぶれた。 それは僕にとって、 まちわびていた祝福となった。 骨盤の中の、いまだおわらぬ射精の内臓装 置のさざめきに、 僕は、牡牛におさえつけられている退廃的 な青黒いよろこびが、まざりこんでいくのを、 感じていた。 僕はまだ、睾丸が痛みにうずいていた。 睾丸から腹腔おくふかくにいたるあまい痛 みが重い射精のあとの後のけいれんとして、 いまだ尾を引く精液の管のうずく存在と、い まだにかるい収縮をうねらせる、直腸のおの のきのなかで、 しかし僕はトニ自身の射精にむけた攻撃が はじまったことを、みづからの骨盤の内側の、 他人によっておこなわれている、僕自身の内 臓の激しい運動によって、知らされた。 僕の内臓は強制的にゆさぶられ、射精のた めの複合した、内臓装置の感覚が しだいに女性のうけいれるための受胎装置 のそれに変化していくうれしさを、僕はゆさ ぶられるみづからの内臓の感覚で、うけとめ ていた 役目を終え、だらしなくちぢこまる、みづ からの青年の男根の存在を、僕はみづからの 意識からおいやって、 僕は女の快楽を追うことに、つとめた。 トニのために。 俺は、トニの、妻なのだから。 トニは僕の蝶の羽のような腰骨を右の手と 左の手で力強くつかみ、僕の大臀筋のうえに かすかにのぞく僕の仙骨にむかって、おもい のたけをこめて、自分のいきり立つ股間に、 つよく連続してはげしく、たたきつけた。 骨でできているはずの僕の腰の、蝶の羽が、 はげしい悲鳴をあげてきしみ、トニはおおき な自分の左と右の手でそれをむしるように、 ひきすえて折り潰し、にぎりつぶして、こな ごなに粉砕している、幻想に駆られた。 すでにけいれんをはじめていた僕のあおじ ろいからだは、トニの暴力の洪水にもまれて いた …なぐってほしい… なぐりつけられて、ぐちゃぐちゃのあふれ だす洪水に、身を潰し、そのまま溶け去って しまいたい…! そう必死にねがっていると、ふいに、赤い、 おおきな波がやってきて、くらい夜に、僕の からだのおもみを、さらった。 めまいが、した。 一対の乳首がかたく、かたまっていたのは、 女として高原に背後から、身をおどらせてい るさなかだから、だった せめられる直腸の筒のうごきにあおられる ように、背後の腰の奥から臍の前まで、じぶ んのあずかりしらないよわよわしい反射の律 動がつづいている… 僕はじぶんがふたたびもらすような弱い射 精をしているのを 赤く暗い、そして重い波のなかで、ぼんや りと知った。 僕はベッドに突いた胸郭と、二本の大腿骨 の支点だけで腰をささげていた。 つめたい少量の僕の、よろこびが、僕の左 の内側の腿をつたっていった。 僕の快楽に酔い、うすくなりつつある意識 とは裏腹に、トニの攻撃ははげしく続いてい た。 ぼんやりとした表情の美しいかんばせは、 横に静かにおかれた、サピエンスのわかい黒 髪の呼吸をする、生きた頭蓋だった。 うすくゆさぶられるそのかんばせのうえの よだれとなみだが、ふたりでおこなう行為の 素晴らしさをトニにつたえ、 トニを静かに、しかし激しく、煽った。 トニは感情として腹の底から湧きあがる怒 りに似たあつい衝動で、僕の腰にすがってい た。 アンドレが、青年の低いしかしうつくしい 声音ですすり泣くたびに、トニのなかの猛獣 は、より巨大に、たけっていった。 僕の絹のようなやわらかい繊細でなめらか な直腸の内側が、僕の静かなよろこびのとき、 またふたたび収縮し、トニをゆるやかにしか し若いちからで絞り込んでいた。 その引きしまるちからを無視して、トニは アンドレのすべての直腸の粘膜をこそぎ落と すがごとくに、衝動のままにはげしく腰を、 使った。 おさえつけている自分の腕の下の彼が、 いい、いい…、もっと…… と、よわよわしく、きれぎれにうったえて いて、トニはいたわりの理性がやききれてほ のおとなって一瞬にもえあがり、星の夜空に まいあがって闇に揉まれて呑まれて消えるの をみた。 彼の内壁が血まみれになるかもしれないと いう一瞬の躊躇は、みづからの荒い息ととま らない激しい腰使いが、とめることができな い巨大な鋼鉄の動輪の暴走する汗馬となって、 それを一瞬に蹴散らしてしまった。 トニは、尻を引き締め、ひざをつよく踏み しめ、やける腹のなかのあつい情熱を極限ま でかたくいきりたったおおきな男根のうえに 乗せ、 腰を、つかい、つかい、つかいつくし、 これでもかと、つかい上げたはてに、三度 目の放精を、存在はしないはずの、アンドレ の卵巣に、はねつづけてしなりをうつ、たえ まないしたたりとして、あびせかけた。 僕は、よろこびに、うめいた。 肩に緊張がはしり、くちびるを噛み締めて トニの精液を、内臓とそこからはじまるベル ベットのような繊細な布の膜という女の感覚 がいだく、一対のかたい小石のようになった 乳首などが、受け入れることに、静かに、反 応していた。 …トニのけいれんがおさまると、ふたりは しずかに、ベッドにくずおれた。 僕は、からだの内側の満足に静かにうめき、 おもくおおきいトニのしたじきとなって、ゆ るゆると、わずかに、みもだえていた トニは、ほうけた僕の左の頬に、かるく、 やさしくくちづけた …いとしい、妻… おまえとのあいだに、こどもができたのな らどんなにかいいだろうに。 はずむ息を整えたあと、ふたりはからだを はなして、よこたわった ミラーについた、てのひらが増えているこ とを二人は確認し、顔を見合わせて、笑った ---------------------------------------- --南仏18-- 鏡の向こうで、ちいさく、かたがたんと物 音がくりかえされるのを絶頂の空白の前後で おかしく聞いていた、自分は多分露悪的なの に違いない このような悪い趣味は、飾り窓で身につい てしまった間違いなく、僕の悪徳だ おたがいにからだをやさしくぬぐい、着て いた服をふたたび身にまとい、 ガラス張りの寝室を出た グリーンの点灯がある側廊のドアノブをト ニがまわすと、熱気のこもった空気と一緒に、 上気した女の子三人が、ころがるようにころ げでてきた 僕はくすくす、人の悪い笑いをこらえるの に必死だった 今日はじめてきたひとりの女の子が、ぱく ぱく、酸欠の魚のように 「また、きていい!?」 とうったえるのが、おかしかった 「悪趣味だなあ」おもわず声を出した僕と そのことめがあった、その子はたちまち秒単 位で真っ赤になっていった トニに睨まれた 俺にとっちゃこの子もおまえも、具合では おなじようなもんなんだぞ その子は真っ赤になってむこうをむいてし まった ぼくはけらけらわらって、いった 「おめでとう、穴兄弟だね」 わーっと叫んでその子はむこうに走ってい ってしまった バタンと、外扉が閉まる音がして、僕は窓か ら、わらいながら叫んだ 「はやくかえってくるんだよー、 そとはひえるからねー」 トニは照れと諧謔が混じった表情で、 おまえ、それは意味が逆だろう たぶん、僕は、幸せだったに相違ない 変態であろうがなかろうが、快楽は人の気 分を陽性にさせる 僕はできるだけこの種類の女子達とは直接 会わないようにしていたが、 嫌いというよりは、おたがいに距離を置い て意識していたほうがよりミラーをはさんだ 形の燃え上がりもおおきいからだ そして、アンドレは本質的には女性を憎ん でいたのである 遺伝子に刻まれて仕組まれた、女性の業と いうものにたいして。 でも、事後の上気したなにかの分泌された 気分のもとでは、それはおおむね不可能だっ た アンドレは陽気に、取って置きの酒やワイ ンを振舞い、 (トニは失礼な女の子はけっしてここには連 れてこなかった) 女の子達と仲良くなっていってしまった ただ、その席で、興味本位の話題はあまり でなかった そりゃそうだろう、あんなリアルを見せ付 けられたあとでは 女の子達をリビングに寝かし、僕たちは寝 室でふたたびだきあった こんな日曜の夜はかれらに、酒を飲ませる ので、かれらを月曜の朝に帰すまで、ここに 泊めるのだ 朝は、彼ら娘達をおくるために、僕も車を 出すことがある 絶対にそれは不可能だろうが、ここで見た ことは他言無用だと一応はくぎをさしながら ---------------------------------------- --鉄骨3-- すこし考えて、その工期が終わるそれから 八ヵ月後に、 アンドレは建築の仕事そのものをやめるこ とにした 未来のために努力しているのであるから、 即死しては意味がないと考えたからである もちろん、失礼だから、そんなことそのも のを口には出せはしない やめたくても、ながされるさがゆえに止め られない人間にとってもそれは侮辱になるか らだ いろいろ世話になったしかしだらしない人 々に対して、感謝を具体的にかえすすべを、 アンドレは知らないのが悔しかった めしやをひらきたい、いちおうの夢をは、 はなしているので、 いつかくいにいくから、ひらいたらおしえ ろよと、腎臓のパイを数々の種類の酒でほお ばりながら、親しい人工:にんく達はいった ささやかに送り出してくれた、酒盛りのあ と、みなと握手をして、別れた 僕を何回か味わった、あの緑色の作業着も、 今日はさっぱりとした普段着で、僕と握手を した 元気で、とその瞳は純粋な祝福をたたえて いた アンドレは、それから北にむかうことにな ったのだが、すくなくともこのときは そのように自分が歩いていくなど、全く予 測はしていなかった ---------------------------------------- --南仏19-- 居間のほうから雑談の気配が感じる いい子供たちだね 毎回そうおもう 愛されて育ったある種の 傲慢さが、愛情と太いパイプで深く直結して いる しかし、それはやさしさという今度はアン ドレ側の傲慢でもあった 頭をなでようとした野犬に、手を噛まれて、 はじめて安易なやさしさは、その試練をスト ップウォッチとして、開始させられるのであ る 僕はよこになったからだを、背後から、ト ニを受け入れながらそうおもった トニはうごかず、そのまま僕の黒い髪をや さしくなでている しあわせか うん そうか、とトニはいった おまえ、ここをひきはらう気はないか トニは話題を変えてきた え 僕は突然の話題の意味がわからず、おもわ ずトニを振り返った トニは僕から身を引くと、自身の前を紙で ぬぐいながら 街のほうに、通りの集客力でも、家賃でも とてもいい物件があるんだ 僕の尻をぬぐいながら言った そこは、地元の駅も近いし、近くに若干の ヴィラや宿泊施設もある 人間には快楽が必要なことは、いやらしい おまえならよくわかっていることだろう ふつうの人はな、うまい飯があればそのよ こに酒が欲しいし またその右腕はつねに恋をだきよせていた いもんさ ここは、景色は綺麗だが、その意味ではあ る意味それだけだ 事実上車でこなければならんから、俺だっ て、十分酒も飲めやしない 客のリサーチをするのが重要だって、おま えはいっていたじゃないか 恋を謳歌するのが客の欲求ならば、店の歩 いていける近くにいっぱいおおきなベッドが 必要なんじゃないのか おおきな裸の背中をベッドになげだし、た ばこを吸いながら、トニはぼそぼそとしゃべ っていた それは、その自分こそが、ここで満ち足り た情事をしているからこそ、とても痛いほど よくわかる 両の乳首をつよく吸われながら、 ワインの酔いに身をゆだねること以上の快 感の痛みの伴う幸福を、アンドレは知らなか った こいつは、本とは俺より年下なんだよな… いつのまにか頭を越されてしまった気がす る 最初は、地元のそれこそパブのような溜ま り場になってしまうこと恐れて この物件でもいいとおもったのだが 事実上酒を出せないことに、うすうす自分 自身の営業形態の限界を感じていた そして、こいつとであったのも、認めたく はないが、そんな田舎の悪所なのだ …それはわかっていたよ、そのうちね 早くしないとその物件だって、だれかにと られちまうぜ トニはかわをむいてもいないゆがいたじゃ がいもを岩塩になすりつけながら、おおきな 前歯でかじり、あぎとの咀嚼でふみつぶしな がらおとをたてるように食べた 黄色い白ワインをすすりながら。 * プレーボーイのトニは日をまたぎ、アンヌ たち女の子と、俺を、かわるがわる独立して 抱いていた。 俺を抱くようになってから、トニはほそい とはいえ若い男を屈服させることでおぼえた、 行為のちからづよさを、活発で背の高いガー ルフレンドにおこない、性のあとのみだれた 長い髪のあいだから満足の賞賛としての好評 を博すようになった どこでこんなことおぼえたの たぶん、そのようにきかれたのだろう。 彼女達がこの食堂にあそびにくるまで、日 にちはかからなかった 僕はトニのからだがなくてはだめになって きてしまった。 トニの胡座のうえで腰をあずけあおむけに よこたわって脚をトニの腰にまきつけてゆれ ていたのに、 突然右腕をつよくひっぱられ、右肩ごとわ かい裸体をかるがるとかかえあげられ、いき なりトニをふかくうけいれさせられて突然の うれしい屈辱にかれの妻の地位を確認できて 歓喜に射精する僕のマゾヒズムにまた、彼が 注いでくれたり、 あるいは背を両手のつよいちからでつよく 押され、のしかかってくる、その体重の重み に屈服し、 あるいは対面で、両足首をつかまれ、もも をかかえこまれ、ひざをかかえあげられ、 死んだ「雛菊」にしてあげたおなじ姿勢に、 かかえこまれ、ふかく折り曲げられて、 極限までたたきこまれている巨大なトニを、 ゆるゆるくびを左右にふりながら、まるで可 憐な少女のようにちからなくすすり泣きつつ、 その太さと熱さと硬さを、感じさせられ、 腰と腰の内側がしびれ、からだをはげしく 何回もうらがえされつづけているうちに、意 識と四肢のちからが、快楽にかすみはじめて も、 あるいはゴムや合成繊維の若い筋肉の人造 人間のように、健康なはずむ若さで笑いなが ら、だきあい巨大なトニに対等のちからで、 レスリングをいどもうとするあかるい甘えの なかでも、 トニのセックスは、ちからづよかった。 それは、トニという牡牛が、自分のすなお な欲望に無垢、だったからだ。 トニの無垢が、おのれの腹腔のなかで、力 強くうねるとき、アンドレはなんともいいあ らわせない幸せを感じていた。 トニは俺を、ベッドでは女としてあつかっ てくれた。 つまり逆に、トニは男なのだ。 変態は僕だけで、トニは男性であった 自分は、数日ごとのトニとのセックスがつ ねに燃えあがるのがうれしく、またそのイン ターバルの日常が、つねにセックスによって 緑の息吹をふきこまれているのを、おそろし い効果として感じていた トニとの関係で言えば、アンドレのなかで 内臓の肉感が、アンドレの精神を犯しつつあ った アンドレは、静かに戦慄した。 関係をうしなうのをおそれるがゆえに、じ ぶんから媚びてしまったら、どうしよう… …媚びる? この僕が? とアンドレのなかのべつのノートのページ が異議を挙げた。 実は、それはアンドレの過去からいえば、 「治癒」の意味では、のぞましい方向への変 化であったのかもしれないが、それはアンド レの緊張に武装した経験という精神が、部分 的に改築される可能性をしめしていた それは危険な手術では、ないのか。 温暖な南欧がアンドレをロボトミーの手術 台へとひっぱろうとしている。 それは治療なのかもしれないが、安穏や平 和が借金という偽物である場合、それは悪平 等への治療となる 平和が戦場へのプロローグであることにす ぎないのであれば、警戒心という野生は、必 要な武装である 野生というものは必要に応じてそとからか ぶさるものであり、アンドレは慢性的な緊張 が、じぶんのなかにそのような一種の野生を はぐくんできたのを知っている 野生をうしなうことは、森やサバンナでは すぐさま死を意味する。 その意味でぬるい気候というものは危険な ものである 幸福は、結局高価につく。 * アンドレはもっと明文的に意識すべきであ ったかもしれない * 温度の高いこの土地は、熟成させると、白 はすぐに度数の高い黄色いワインになってし まう 白身魚やソラヌム芋にあう白は、ここでは 一、二年の若いものにかぎられた …この場所が自分の第二の愛着として感じ られるようになっているのが、つらい たぶんそれは、ここではじめておちついて 人に愛されたからだ お客さんへの奉仕のかたわらで、同輩を励 ましていた行為は、確かにまず戦友への友情 であったが、 しかしそれがなんであれ、世界を深くみる ための視野をそそぎこんでくれた、彼への感 謝を、僕は愛を持って、かえすことができた だろうか、とアンドレは、想った。 (インディゴ…) かつての恋人の、白皙の顔が、ふと、よぎ った * おんなのこがいようといまいと、僕は寝室 の体重計に毎朝、乗るのが日課になっていた これは、インディゴにおしえられて身につ いた、青年の香草の香りを嗅ぎに来るお客さ んのために、じぶんの肉体を商品としてチェ ックする最低限度のマナーだった 妻にとって、夫はつねに客である。 その、緊張感がおたがいのなかにつづいて いるかぎり、セックスをおたがいにオブジェ のように内臓の底からも、みがきあげること ができるのだった。 トニのからだはいつも九拾キロ近くあった 背は百八十を越えていて、背中にクレーン のような強い筋肉が二艘の船底のように、な らんでついていた 先史時代の、原人エレクトスは、たぶん、 こんな、だったろう 古人類が記憶と知恵がつきすぎる方向へと 変化をはじめたとき、 つぎつぎとおおきくなっていく内面の世界 が、想像力が招く花園が被害妄想となって、 生きるための狩りの技術を同胞に、 先取防衛といういいわけとしてつきたてな いように、 発達するのどのことばとおなじぐらいの重 い意味で、 皮膚とぬくもりを使っておこなう親密な会 話をおこなうために こごえてしまう危険をあえておかしてまで も、体毛をうすくする方向へと道をあゆんで きたように、 アンドレは、情事のあとのみちたりた気持 で、それを確信として実感していた 妄想を危険な方向にころがさないように、 気持ちをたしかめあうための会話がこれであ るのならば それはむしろ異性同士ではなく、男性同士 でこそおこなわれるべき会話、なのかもしれ ない 節度ある同性同士の愛、とは、インディア ンのたばこに似ていた おたがいに体温をかさねるために体毛を減 らし、 おたがいにはだかでだきあうための変化は、 たぶん、 賢くなりすぎてしまった猿にとって、たぶ ん必要なことなのだろう 北のマスターがアンドレのことを 「バーミリオン」、と名づけたように、 知性は、しばしば、獰猛な感情となって、 炸裂する。知能とは、かならずしも、恭順で はない。 知性とは、誠実であろうとする知性とは、 誠実であるための目標や広義の課題に、努力 を積み上げるのでつねにそのうらがわにスト レスの堆積を、積み上げている そのストレスとはつねに爆薬であり毒薬で あり、アンドレのようにマゾヒズムを発見し、 じょうずに炉の中の冥界元素のように適宜燃 やし尽くさないと、たいへんなことになる 燃やし尽くせなかった毒の元素は堆積とい う濃縮を経ると核の弾頭になる アンドレの気性からいえばその弾頭の標準 は無関心と怠惰の温床という意味のだれのこ ころにもひそみうる官僚主義にむかうことに なるだろう 教師と官吏は兄弟になりやすい 怒りが同時雷管の複雑なメカニズムを設計 しないように、 アンドレには、セックスは必須だった それでなくとも、アンドレは裏切りや怠惰 を無意識で憎むこといちじるしく、 またすべての細胞に対する栄養をこのみ、 それを不断に供給する彼は、脳の芯の、ほの おもまた高温に青白い。 フランスにうらぎられたフランスの子は、 まるでドイツ人のようになっていた アンドレがそう望めば、それは観念のライ ンの河を越えるだけのことだっただろう 六員環の安定性がそえられている窒素は、 ガラスの刃の認識を全面的に肯定するので、 牛をしばしば、狼に変える 炭素の六員環の保守主義は、ここでは電気 の短刀のための導線と絶縁物としてはたらく 肉食獣は、生理的にアミンを肉から供給す ることによって、電気の短刀という牙をまた みがくのだ 食われる犠牲は、自分の肉の成分が、猛獣 の脳の芯で、衝動の牙になるだなんて、皮肉 としか想えないだろう じぶんを肯定し、うぬぼれなければおなじ 心をもっている哺乳類の隣人をいきたままひ きさき、胃袋のなかにおさめることはできな い 腹が減っていないかぎり、肉食獣はかもし かのよい友人となりうる 猫科や犬科にとって、誇りとはたかめてい く螺旋階段というセックスのようなものだ 怒りやうぬぼれをデリケートに、おだてて いかなければ、隣人を食料のために殺害する ことはできない かれらにもか弱いイデオロギーは必要なの である しらけてしまった狩人は、その日は狩りを しない 仮想敵のいない恒久平和と飼育平等は、慢 性の不景気と無気力、に苦しむ 家畜の無邪気とアパシーという不況はおな じものの両面である 攻撃というものは、ゆるやかにうすめられ れば、じぶんを肯定するという意味で、生存 競争という意味において、植物さえもおこな っている太古からの原則である その意味で、アンドレ達は死んだ後輩達を 結果的には愛していなかった じぶん達が前向きになることによって、踏 みつけにし、うすめられていたとはいえ、噛 み砕いたのだ。 アンドレを、怒らせてはいけない アンドレの背後には世界というものの存在 と、経験からつかみとった技術がある。 それは、トニも直感的には感じていること で、逆に、その灰色オオカミをあえて雌の妻 として、 四つんばいにくみしき、くみしいて絶頂に 激しい腰の運動として駆け抜けるとき、最高 の征服欲を、青年に注ぐときにあじわうので ある しかしベッドでいかに甘えた声を、あげよ うとも、狼は、やはり狼なのである アンドレのなかにいる狼とは、逆境のなか で自分の立場を認識する怜悧さであった 怜悧さとは、逆説のようだが怜悧であるこ とに全面的にうぬぼれなければ、できはしな い。うぬぼれることとおぼれることは大きく ことなる。 両者を区別するための力は、自由自在にヘ ロインを禁煙できる意志の力で、それは意識 して幼少から大きな世界観を作ることによっ て初めて可能になる ギャンブルから脚をぬぐえない人間は、自 分を大切にすることができず、彼らは貧者と 呼ばれる 貧者を救うことはできないので貧者は管理 されることになる 管理にはかならずしも貧者を大切にする義 務はない * 南仏で、ふたりは、利害が、一致していた …またそれは愛情というよりは駆け引きの 色彩がつよいのかもしれない 男性の、たとえばどんなにわかくても男性 のこころというものは、冬空の児童遊園のジ ャングルジムに似ている 北風がさむくとも、みはらしのいいてっぺ んで、できるだけ遠くを見ようとする。 ぬくもりを得ようとしても、その鉄の足場 がじゃまをして、肉体は物理的によりそうこ とはできても、精神は接近し得ないことが、 多々ある 孤独の必要から、認識のために気性がはげ しくなり、孤独であるからこそ、男同士の性 は、荒淫の限界を試そうとする アンドレの、なかにあるきらめきに、獰猛 の色彩をみたあの娼館の老主人は、たぶん、 感性の上で、秀逸な人物であった。 * 快楽に関して聖書の記述は、おそらくそれ が過酷な砂漠でかかれたからだと、アンドレ は考えることにしていた 「なんじ姦淫するなかれ」といわれたら、オ ーディンの一族は、どこにすめばいいのだ 快楽だけが、世界でなければいいのだ シャワーを浴びる彼をため息つきながら眺 めている自分は、女の賎情が、服を着て歩い てるのが自分なんだ、とあらためておもって 赤くなった なんだおまえ、信号機みたいな顔して (おれのほうが、年上なんだけどな…) トニはだんだん、僕の夫のような存在に変 わっていった そのことは、純粋に、嬉しかったが。 アンドレにとって、淫乱の女神の名をもつ 青年に自分がその像のリアルな芯として、よ りそわなかったことが、過去の一番大きなに がさだった。 ---------------------------------------- --南仏21-- テラスの周り、みはらしに邪魔にならない ところにはひまわりが植えてあった 南仏はインディゴがうらやんだ花の世界で あることはたしかにそうであったが、 この地でくらしはじめた感想を、やはり生 理学生物学のことばで説明すれば、 インディゴはその聡明で理解し、その納得 を残念そうな返事でかえすだろう。 青い花があまりに、すくないのだ ここのあざやかな花の色はみな臙脂やサフ ランイエローで、青や紫はすべて昼の天空へ すいこまれてしまったかのような、植物の南 欧の風景だった 青い色をしめす植物の花の、アントシアニ ジンは、塩基性の土壌の条件もさることなが ら、気温が低くあることもまた必要条件だっ た かわり、気温の高さは植物のからだそのも のの成長もはげましまたあおっているので、 リストランテのまわりのひまわりはその咲 き終わった花の実の、特大のピッツァよりも、 おおきな、白黒の種子の波のようにうねるお おきさが、 くびも折れよと、そのおもみに耐えていた ぜんぶかりあつめれば、三、四十はあるだ ろう。 あぶらをしぼったほうがいいのか、常連の 客にも聞いてみたが有効な利用法はまだきま っていなかった。 * ある日、買出しからかえった、僕はだれも いないはずのリストランテの中から物音がす るのを確かにきいた …ものとりかな こんなあさから?? 息を詰める むこうも敷地内に自動車が止まった音は聞 こえているはずだ 危険だ… 一度車を出すことにした 小一時間近くの岬を食材を抱えながら、不 安にハンドルをあそばせたあと、またふたた び車を邸のまえにつけた こんどはいないだろうと、気が緩んだとこ ろに、なにかが油断として忍び込んだ 濃厚に愛されつづけて、人生そのものにあ るべき野生の警戒心が緩くなっていたのかも しれない いろいろつめたジュート麻の袋をふたつ、 (車にはまだ三つあった) 厨房の前の店舗の床にどさりと置くために しゃがんだところ、 背後からおおきな男の手で、口をふさがれ た …しまった 売上はどこだい、にいちゃん 背中に丸い硬い小さな筒が鈍く押し当てら れているのがわかる・まずい、 素人じゃない… ただのこそどろではなく、何処かのファミ リーにつながっているごろつきならば、 正当な構成員であろうとなかろうと、 あるいははじかれた一匹狼だろうと、 ここで抵抗しようと、 あとで、立件しようと、 ある意味、逃げ切りのプロだ 逃げ切られる、ということに、たぶん僕の 生死は、たぶんたいした問題ではないだろう 冷静さのうえに、いやな湿気が、じんわり と僕の肌の上ににじみはじめた 抵抗した場合は、…すくなくとも確実に殺 られる…… 冷静さを保ったまま口の中が乾いていくの を感じた 片手でアンドレの両腕をつかんでつぼを心 得たようにやすやすとねじりあげ力をこめる う… しかし身振りで、事務所に使っている小部 屋を示し、 口から手を離すように乞う ああ、そうだなしゃべれなければ しかたないもんな だれもこないだろうが、さわぐなよ ちいさな簡易金庫の前にしゃがみ、 とびらをあけながら、精一杯の気丈な気持 ちを込めて なんでうちなんかに来るんですか、 そっち屋さんなら、いくらでも稼ぎがある でしょうに 最近不景気でね、このあいだ、ひとべらし でロートルのおれからまっさきに破門になっ たんだ 理由なんかつまらんもんさ いやらしい先 公が閻魔帳をつけてたみたいにむかしの落ち 度をもちだしてなあ そんなことより、さっさとだしなよ 死にたくないだろ けらけら笑いながら、しゃがんで、丸い筒 をシャツの背中に押し付ける アンドレは、じきに恐怖という麻痺が自分 の中になじんてくるのを感じた …これが、度胸、というものなのだろうか ずいぶん生産性のない感情だな 自己憐憫がわいた ここはいいよなあ、ちょっとさわいでもだ れにも聞こえはしねえし、 まちなかでは額もおおいんだが、すぐに、 人がかけつけてくるもんなあ 渡した一週間分の札にちっと舌をならし、 こんなもんでおれに前科を増やそうっての か、とアンドレをなぐった ふと、父親になぐられていた記憶がちらり とした 殴打の意味がちがっていた 父親の殴打は、じつはあべこべに感情の懇 願だったが この男の殴打は、「機能」だった 目的のある機能だった やくざの生業もながいに違いない すくませるために、殴り 目的のために、たぶん「消す」 アンドレは、プロフェッショナルを前にし て、ある種の尊敬の念をも一瞬感じてしまっ た あまり、すくんでいないアンドレをみて、 男はすこしあれ、という表情を一瞬見せた かれのいつも使っているシナリオのプログ ラムからは、予想外の戻り値だったのかもし れない やはり、かれは、下っ端ではない プロ… アンドレは、はじめてつめたい恐怖を覚え た …きょう、自分の人生は終わるのかもしれ ない 通帳も、だしなよ アンドレの顔色がかげった ためらいをみせたアンドレに、泥棒は天井 に威嚇した カードの番号を聞き出した強盗は、彼に この番号は間違いないだろうな と聞いた 間違いありませんと沈んだ声でこたえたア ンドレに、ヤクザはやにわに、彼の右の腿を 打ち抜いた ぐっ これは保険だ にやにやしながら彼はいい、 もういちどきく、ま・ち・が・い・はないな まちが・い・ありませ…ん アンドレは右の腿をおさえながらうめきか えした、そうか、おとこはとやや不満そうに うなずいた うそをついているわけではなさそうだから いたぶるのは、これで勘弁してやるよ さて 男は銃口をアンドレの額に向けた 顔を見られてるんでね、脚は当分付かない とおもうが、まあおまえさんのせっせとため た金子の額とつりあうとおもうんで、業をか ぶっといてやるよ やくざの論理だ、とアンドレは想った それ以上の思考が、恐怖でできなかった 自分もやはり、人間だったんだ そのことにささやかなよろこびを発見した が、人生の秒読みを覚悟しようとしても、こ ころの蒼白が、それをゆるさなかった ああ、こういうときに、ひとはもらすのだ ろうな、下腹の感覚と脚の力がぬけていく自 分に気が付いた 窃盗だったらいくら、 コロシだったらいくら、 脚がつこうがつくまいが、そのこともしか し折込済みで相場があるのは、たぶんそのよ うな「行為」そのものが まるで証券のリテール・デリバティブのよ うに取引されているのだろう 裏の社会は、たしかに「産業」といえた もし、いまアンドレが冷静に傲慢だったな ら そんなことを考えたろう また、なんで素人の僕に、そんな土俵の取 引にたたせるんですかとも、言いたかったに ちがいない しかし、すべては、野生という自動儀式に 肉食獣が忠実に段取りを一行ずつ読み込んで いるに過ぎなかった 人は、ユーモアとペーソスを消し、自分を 機械にすることで、 やらなければならないことを実行するので ある 首筋をくわえ込まれた獲物は、できれば意 識を失ったあとに はらわたをひきずりだされる段階が来てほ しいことをねがう程度のことしかできない なにか言い残すことはあるかい?? インスタント食品が出来上がるような数分 後に、自分は消滅しているんだとおもうと、 重い本質的な恐怖におそわれた ひ、…… ああ、自分はこんな声も出せたんだ、とど こかで感心する自分がいた 誰にも惚れることができない冷血漢だとお もっていたが、なかなか感情的なところもあ る… 雪の中で気を失ってから、なまなましい自 分の部分にふれることができて、一瞬嬉しか ったのは、本当だった 早く言わないと、ひいちまうぜ 獲物をいたぶるようににやにやしながら男 は、アンドレをいたぶった たぶんこんなことは彼にとって何回も経験 のある手練れた作業にちがいない だが僕は、何回も練習することはできない 冷や汗の中で、練習の周期は、すくなくと も二十何年かの自分の人生よりはながいはず だと想った しかし、信じていようといまいと記憶と経 験がすべて消えてしまうというおそらく現実 のまえでは うまれかわりなど、幼稚なたわごとだった それは、偶像だった まってくれ、 やっと声が出た、口がうごいたが、音が、 でたのが奇跡だった いのちいごいならきかないぜ、お嬢さんよ 殺すのなら、それでもいい仕方がない、 ただ、こんなやりかたは嫌だ、やるなら、 胸を撃ってくれ、 ふん、 おとこは、すこし考えて銃をすこし引いた、 そのほうがほんとはくるしいんだぜ 急所をはずれたら、激痛の中何時間ものた うつことになるんだが、それでもいいかい じゃあ、こうしよう、どれかは急所にあた るように、三発打ち込んでやるよ せめてもの情けだ、現場に銃弾が多く残る のは警察にはまずいんだが、 俺が必要なものは、金と口封じで、おまえ の苦痛じゃないからなおれは拷問しにきたわ けじゃない拷問なら誰かにやって、ああ、こ れから、死ぬんだっけな それでいいな アンドレである、俺は、よわよわしくうな ずくと、おとこはよし、といい かれの顎をつかむとおもいっきり仰向けに 跳ね飛ばした …めを、つむってな がん、 がん、 ががん、 三つの音は、自分のからだの内側から響い た音だった 音のたびに、自分のからだがはげしくはじ けて震えるのを感じた 実際はもっとかわいた、まるで娯楽の、カ ーニバルのときに聞こえる たのしい爆竹のような、かわいたぱんぱん という音だった …じゃあな 成仏しろよ おとこは、革靴の足音と共にでていった どこにとめてあったのか、ごく普通のスク ーターの遠ざかる音がした 銃弾の、火薬なんて、そんなに多いわけで もないのに、 銃弾の径など、十ミリにも満たないのに、 なぜ、人はそれで命を落としたりするのだ ろう まだ生きている彼は、現実を馬鹿にするこ とで、事態から脅迫されるのを、しかし、胸 にはしる激痛の中で、跳ね返そうとした アンドレは、床にころがり、身をよじり、 激しい痛みにあぶらあせが全身に流れてくる のを感じていた 痛みはマーチをならしながら行進し、 冷や汗はまるで冷蔵庫から出したおおきな 黒い西瓜のように、 あらゆる意思を無視して、ふきだした 耐えられない訳ではない、激痛ではない鋭 い痛みの軍隊が、背中から、今絶対にとれな い… まるでメキシコ種の唐辛子の粉を、バター で溶いて、直に脳髄の裏側に、塗りつけたみ たいだ しかし …? 鼓動が続いている …い、生きている 心臓が破けていれば、こんなものではすま ない 貫通したらしい銃創からは血液はあまり皮 膚にながれてはいなかったが 胸の中が破壊されていれば、くるべきごく 近い未来は予想できた …そのほうが苦しいんだぜ 強盗の言葉を、激痛の中でくりかえし、ぞ っとした じわじわと滲み出す、内側への大量の出血 が、肺をおしつぶし、呼吸困難で、のたうち 大量失血で意識を失うのだ ひとりで、この事務机の前の木の床の上で 意識を失えば、それはそのまま、死を意味す る アンドレ、おまえは死にたいんじゃなかっ たのか そんなことを想ったことはないはずだ、 ではどうしていつもいつも殺される、マゾ ヒズムのとなりを好むのだ これは、恐怖をもてあそんできた、おまえ に対する制裁だよ 自分が自分に問い掛けていた …動けない 身をよじるたびに、肩から松の木で作った ささくれだった楔をおおきな木槌でうちこま れて、わななく 呼吸と鼓動が、ひっひっという、自分の悲 鳴の激痛のくりかえしとともに、せわしくな っていった …まずい 激しい痛みの中でおもった、 映画の中で見た、痙攣しながら死んでいく 兵士の映像が浮かんだ メディアの中で見た客観は、観客に復讐す る死神となってアンドレの腰の上に、ふうわ りと舞い降りていた このまま十分もしないうちに、走馬灯が廻 りだすだろう それは恐怖を和らげるための自動反応なの で、そうなったら完全にからだはあきらめの 深い麻酔に掛けられて、おおきな流れにのみ こまれてしまうことになる アンドレは、激痛の中の、自分の意識に驚 いた あぶらあせを流しながら、どこまでもさめ ている自分の認識の強さに驚いた あるおおきな量のかたまりの痛みをイメー ジし、それを覚悟して自分にはげしく痛みを たたきつけた 歯を食いしばるとかえってひどいので、わ ざと力を逃しながら事務机の前にすがりつい た 電話機が視野に入ってきたのを見つけた まるで、ガリレオがはじめて木星の月を発 見したように 呼吸はさらに浅くはげしくなっていき、痛 みを加速させた ごぽ、 コップ半分ほどの、血を吐いた 間違いない、内側が傷ついている… 呼吸を止めたいが、それをすると、胸郭に 緊張が走りとても痛くてそれもできない 声をだせるだろうか あぶらあせのの中の不安にかまわずに、救 急の番号をいそいで押した 意識の中では冷静でとおもっていた自分は、 ダイヤルを三回も間違えた アロウ でた、すこしずつかすみはじめた意識の中 で、用件を順次伝えた 強盗、重症、窒息、住所、ここへの来方、 この電話番号。伝えてから、たおれれば自分 は「もう」電話に出られないじゃないか 絶望のなかの諧謔に自分を馬鹿にした そして自分はあと十分ぐらいしかもたない ことを。 若干の向こうの質問にこたえたあと、怖か ったが、 受話器を置いた 宇宙と世界から永遠に切り離される気持ち がした あぶらあせの痛みに、すこしずつ死ぬ恐怖 が混ざってくる また、血を吐いた 多分「内側」には吐いた分の倍の失血が出 たいるだろう 痛みに耐えかねて、椅子の座面に、すがっ た 呼吸がかぎりなくせわしくなっている 痛い… 痛みにアンドレは泣いていた 完全な窒息ではないから、その窒息の恐怖 はなかった 自分が死ぬかもしれない恐怖は、激しい痛 みが紛らわしてくれた ふふ、と涙まみれの顔で自嘲した この痛みこそが、即死と引き換えに手に入 れた財産なんだ この痛みがあるからこそ、死ぬことも、怖 くない… 自分に言い聞かせた 周りが暗くなっていった それはある程度の急速さで、すぅーっと暗 くなっていった ああ、きたな… 赤ワインのビネガーで作ったサワークリー ムのように、 うすむらさき色の白濁した、うすぐらい闇 がアンドレの周囲をおおっていた 入り口、というものは夜明けの色に似てい るんだなとアンドレはぼんやりおもった なつかしい、夏の海のいろだったらよかっ たのに トニオは、いま仕事だろうな 俺がいなくても、幸福になってほしいが… カリフォルニアのユダヤ人のような、 ボストンのロシア人のような ひげの人のよさそうなトニのにこにこした 顔がめに浮かんだ 彼は新大陸のそのような知人がいたわけで はない かれら移民の各界の著名人は、書籍や映画 で、話題の旋風を巻き起こすが、 仕事はしばしば営利的で、つめが甘いので、 後続者の参考にならない ああいう甘い笑顔だから、いつまでたって も下っ端なんだよ… 彼は内心ほほえんだが、顔の筋肉にはすで に力がなかった インディゴと一緒に、学校に通っていれば よかったのかなあ 自分の父親とカーマインが、ならんで背中 をむけてむこうに座っているのがみえた なにこれ、へんなの… ---------------------------------------- --南仏22-- なぜ、人生に戻ってくるときにかならず、 くだらない緑色を帯びた直管の蛍光灯の光に 出迎えられるのか、彼にはよくわからなかっ た 病院蛍光灯教を教団としてたちあげればあ るいは悪徳僧侶と組んで、病院はもうかるの かもしれないなと考えている アンドレは考える冗談ゆえにわれありとし て、戻ってきてしまった お目覚めだ… トニが泣きそうな顔で笑ってみおろしてい た あれから三日経っていた ---------------------------------------- --南仏23-- 少なくとも、生き残った意味では運がよか ったことになる 救命隊と当時に、別働した処置医が現地に むかわなかったなら、たぶん助からなかった だろう 出血は内部で、深刻だった 最初に救急車が着いたときはアンドレはも ちろん意識を失っていた 泣いた頬の上に、まだわかい瞳が、半開き になって光を失っていた 皮膚は酸欠のチノアーゼを起こし、綺麗な むらさき色を帯び始めていた 救命隊員は、ちょっとすくみ、人間を死体 袋に押し込む訓練を思い出した この半開きの瞳の青年の顔の上に、またジ ッパーを上げるのか だが、まだよわよわしい脈があることがわ かり迅速な処置が始まった 救助するほうの職業も、 殺すほうの職業も、たぶん 訓練による自己の自動機械化という意味で はおなじ種類の職業と、いえた からだを動かしていいものかまだわからな いので、そのままの体制で、まず失血を補填 するために、電解質で分散された白い沸化炭 素系の代用血液のバッグが、 アンドレが掛けた電話のはるか高所に二つ 掛けられて、液の注入が始まった 気道の血を吸引し、とりあえずおおむねの 液を排出すると、弱い流量の酸素を強制的に 送気して、物理的に呼吸を確保した 弱いぷつぷつという音が続き、末端の気道 か肺に損傷があることが想像できた 胸郭がたちあがり、銃創から血が弱くにじ み始めた 処置士は、送気のバルブをしぼった そんなんじゃ、だめだ 一歩送れて到着した救命医が、局所麻酔を 打って左の肋間に穴をあけ、穴をあけた瞬間、 まるで道具のふいごのように空気が噴出した 排液弁の太いパイプを刺した 徐々に送気を送ると、きたない色の液がじ わじわとガスとともにこぼれてきた とりあえず、ここでできることはここまで だ 怪我の状況はどうだ、うごかせるか? 死体も患者も見る立場の男が、ほかに外傷 もなく脈も続いていることを告げた 脊椎の損傷があるのかどうかがわからない のだが少なくとも腹部に銃創がないので憶測 に過ぎないが腰椎は無事であろうことを伝え た この状況では自発呼吸はまだ無理だろう X線を見なければならないが、動かして裂 けているかもしれない大血管が開くのが怖い 輸液は十分あるんだろうな、代用血液だけ だとショックを起こすかもしれないぞ 患者の型がわからなかったので、各血液型 は最低限度しかありません 処置をして、十分ほどが経っていた チノアーゼは徐々に収まっていったが、白 い血液の色が反映されているだけかもしれな い 脈は 続いています、大丈夫です よし、はこぶぞ アンドレのからだはカートリッジの担架に のせられ、救急車のレールの上に接続された 銃を撃った犯人がここにいたら、職業上必 要な露骨な皮肉で、 逆回しなら、屠殺だな といったかもしれない これは、それなりに賛辞であった 隊員におくれて到着した警察が、床の上の ひとつのメモに気がついた 水色の紙片に 「まにあえば、トニオに連絡願います 番号は……」 力の入っていない筆跡は、やや読むのが難 しかった 走り出す搬送車を見ながら、警官は想った 予断を許さないが一命は取り留めたらしいと も口頭で聞いていた (まにあった、わけだ。運のよい子だな) ほとけが徐々に成仏していく、殺人事件の 捜査など、普通はしたくはないものだ 法律がやれといっているだけで、死んだ子 の年を数えるのはだれも熱心ではない 願望復讐ドラマが営利ビジネスとしてそう 演出しているだけで 警察官僚なんて、なまけようとおもえばい くらでもなまけられる ---------------------------------------- --南仏24-- まだ、いきている… よかったのかどうかは、わからない 医療が、救命の奴隷であり倫理や哲学と没 干渉なのはある意味、無責任だな 声が出せなくて幸いだった 殴られるだろう 車が病院に到着したとき、アンドレはなさ けないデッドオンアライバルでもなさけない デッドオアアライブでもなかった あまったれたスコットランドの馬鹿が、 「温室もやし」という名前を自分たちにつけ たのはある意味自虐にみちてるなあとおもっ たことがあったが シリコンと送気蛇腹のチューブに数かぎり なく接続されて、機械でモニターされている 自分の姿を、かぶせられた酸素テント越しに 見ている自分はまぎれもなく温室で育てられ ているえんどう豆のもやしだった しらないあいだに世の中はこんなに進んで いたんだなあ 知識では知っていたが、いざ自分の肉体が 接続されてみると妙な気恥ずかしい感慨が沸 いた トニの話を聞くと、つよい痛み止めが使わ れているのはまちがいなかった モルヒネは作用に強い癖があるから、もっ と使いやすい開発された薬だろう 肋骨を切り開いて、傷ついた血管とある程 度太い気管を縫合し、いくつかのやぶれた肺 臓の法面を修復してとりあえず胸郭を戻して あった 俺は、洗われるむなしい鶏がらの骨だった わけだ 肉と卵を取るために、数羽の鶏を浜で、飼 ったことがあったが、だめだった おんどりをしめられないのだ 後悔した、こんなに愛情深い生き物だと知 っていたら、飼わなかったのに、と目をあら ぬほうに、そむけうごかなくなった、じぶん がはいている長靴の前にある赤いおんどりの ねじれたくびをしばらくみつめながら、おも っていた インディゴに殴りかかった夜の記憶が、め のまえの砂だらけによごれた神聖として、に がい冒涜の料理になった じぶんをしたうひなを、職業の義務感とし て料理の練習台にしたかれは、 完成しためのまえの義務としてさらにのっ た冷え切った料理を、 かれは、どうしても食べることができなか った くびをしめられて殺されたアンドレの死を、 無駄死ににしないためにかれは、はらをくく って、自分の肉を飲み込んだ 本当のことを言うと、いけすの魚を締める のも、最近ようやく殺すことの麻痺が進んで、 儀礼的にそれを行えるようになった矢先に、 このざまだ 命を奪って生きているのだから、こういう ときは助かってはいけなかったのかもしれな い 卵をもらう雌鳥とちがって、雄鶏はケージ の中でそれ以降来賓待遇となっていたが、一 度、ケージに侵入したいたちによって全滅さ せられたときは、アンドレは「自分はいたち にもおとるのか」と暗澹となった あの強盗は、まさにいたちであった 生きるために自動的に殺戮機械になるとい うものが、無垢で生まれたたとえば哺乳類が 学ばなければならない文化が、たとえば野生 のおきてだというのなら、 殺すことを代行してもらう都会育ちの安穏 とは、以下に知識だけの卑怯な存在というこ とか。 ふと、犯人のやくざの顔が浮かんだ かれの語りにはよどみがなかった やや語 りすぎな感がしたのは、それが自動機械であ る演劇の俳優を演じていたからに過ぎない 農産物には不毛な、土が三センチしかない 寒冷な石灰岩の草原は、苦悩を通じて劇作家 のとてもよい俳優を生む ただ、観客は俳優が観客席におりてきたと き、パニックを起こしてちりじりに逃げ惑う だろう グラデアトールの傭兵にすべてを擦り付け る、都会の傲慢はひずみを通して、自分のよ うな頭でっかちのマゾヒストを生むのだ おれは、 ふとなみだがこぼれた ころされる鶏の側の人間なのだろう 死ぬなよ トニが俺の手を握った おれは伝えたいことがあるので、指でもの を書きたいふりをした、ほどなく、 トニがメモのたばとペンをもってもどって きた どろぼう、は…?? まだつかまっていない ちょっと、やばい、かも 何で? おれ、あいつ、に、がせ、おしえた え、 わざと、まちがい、のあんしょうを、おし えた 「殺される間際に、はったりをかけたのか!!」 まちがいを、おしえたのは、あいつが、 ほんき、だった、のが、わかった、から ころされた、あげくに、かねまで、とられ、 ちゃ、わりに、あわんだろ 俺はビニールの中でにっこりと笑った しんだら、つかえんだろうが ……おまえが、あるいは、おまえたちが、 つかえば、いいと、おもった、から おまえなあ、そういうことは遺言がなき ゃ、できないんだぞ だいたい、たいしてかせいではいないく せに、 トニは百面相をしている、とても面白い、 そ、うだね、あはは 笑い声を筆談するのは、とてもまぬけだ ---------------------------------------- --南仏25-- 顔を出したのは、黒い背広の若者だった インディゴ… なんでここに 必死で調べれば、まあなんとかなるもん だってわかったよ きいろいTシャツのトニがあとからはい ってきた ニルス・バナデス・アングストローム、 通称インディゴ君だ、だったよね アンドレ?トニがウィンクした えーえーえー?? 読んでいた雑誌を掛け布団のうえに、お とした いたむか…? ニールスがベッドの横の椅子に腰を掛け た …いいおとこになったなあ 仕立てのよい英国製のスーツを着ている でも、それがすぐに新品ではないことに 気が付いた ああ、これか、かれが服を見ていた視線 に気が付いた これは、イギリスの先生のだよこんない いのは、貧乏学生のおれにはまだ買えない よ ああ、笑顔がなつかしい… あの変態でもある恩人から、連絡が入っ てね、 研究室で、おれは下っ端だからあんまり 大胆なことはできなかったんだけど、おも いきって一週間休みをとることにしたら、 いきなり大先生によばれてね 隠しておくことではないし、学費をあそ こでためたんだから正直にきみとの関係を かくかくしかじか言ったら 先生はわかった、 帰りにわたしの屋敷に来なさい て言って、若い頃のスーツだ、きみにや るから、はやくいってこいってね きみはしらないんだろうが、フレドリッ ク先生ってすごい先生なんだぜ フレデリケ? 聞き間違いかとアンドレは想った たずねかえした意味をわかったらしいイ ンディゴが、かすかに笑うと、 フレドリック。イギリス人だよ インディゴが手をのばして、僕の黒髪を くしゃくしゃとかきまぜた。 笑ってはいるが、感情を耐えているのは、 腕の動きの間合いのぎこちなさ、でわかる。 もしかれがくるのがすこし早くて、ここ が個室だったとしたら、 ぼくたちは無言でながいあいだ抱擁を、 つづけていることだろう。 ふかかった手術の傷がまだ半なまなので、 まだ麻痺のまざるいたみが尾をひいている ので、その抱擁につよい気持ちをのせるこ とはできない、けれど。 さがしたぜえ、トニがにやにやしながら 言った 「グリーク」ていう言葉だけを頼りに、 港町の変態娼館全部に電話を掛けて、 なにしろ、今は休業してたろ、やっと引 退していた御主人につながっても、あっち はしばらく本当かどうか疑ってたからねえ 十日かかったよ、この分は回復したら 「みっちり」はらってもらうからな 隣の中年夫人がへんな顔をした 僕は、すこし赤くなった …ちょっと、ここ大部屋 トニはいけねという顔をした ドーバーからきたのかい と聞くと、 うん、そこから鉄道 遠かったろう うん、すごく遠かった おまえこそ、こんなところに引っ込んで ると、早くおじいちゃんになっちゃうぞ かれがわらった ちょっとさみしかった 彼は順調に、自分の進路を進んでいる いずれそれなりの幸福と、それなりのさ さやかな栄光のなかに住むだろう かれのスーツは、かれの先生のたばこの においがした。 職業や世界がちがっているから、たぶん その世界に、自分はいない …すきだったんだなあ こいつのことを 消化のわるいものをたべてよければ、こ れを食ってくれよ オランダのものじゃないから、味はちが うと想うけどね 来る途中のスーパーでかってきたという、 コロッケが袋に ひとやま。 ふふふ、とみんなでかじった。 もちろん、そこには、アンヌもいたのだ おくりものがあるんだ スーツのうちポケットから簡単な包装につ つまれた、それは万年筆のつつみのようにも みえたが、 あけてみなよ うながされてつつみをひらくと、そこから あらわれたのは、銀のチェーンと、質素な銀 のリングだった 「やきもちやかれるとこまるんで、説明する けど」 インディゴは、ちらとトニをみながら (「彼に、やきもちやかれると」とはいわな かったそうだろう、ここは大部屋なんだから インディゴにある繊細さは、トニにはなか った また、それはそれでいいのだろうと、おも う、僕はかれの繊細さの友であり、トニにと っては、性の暴力を受けることを権利として 要求するじつはしたたかな妻、なのだから) アクセサリーというものは、信仰のために はじまったんだ きみのえにしにふさわしい金属がなんであ るかはしらないけれど、すくなくとも銀は、 邪をはらう効果があると信じられている おねがいだ、こんどのようなことがないよ うに、気休めかもしれないけれども、これを みにつけてくれよ インディゴは、すこしなきそうなかおでそ ういった アンヌがそれを不思議そうな顔でながめて いる 僕は、ガウンをはだけ(まだ、胸から浸潤 液を吸引するためにからだには二本の透明な 太いチューブが刺さっていた) くびすじの後ろで、チェーンの小さなリン グを、とめた 似合うよ インディゴが笑った えへへ、 とアンドレが照れたような顔を した アンヌとトニも、つられて笑っていた 「指のリングは、普通の女性用だ 小指になら、入るだろ」 そして、 くすりゆびは、だれかのためにあけておく がいい と、さみしそうに笑った ---------------------------------------- --南仏26-- アンヌとトニは、大病院の一階にある売店 のまえで、コロッケをかじっていた 久しぶりに会って、話がはずみはじめた二 人をきづかい、めくばせあって、抜け出して きたのだ おのおの大きいコロッケ一枚ずつを持って。 本当は廊下で歩きながらかじっていたのだ が「廊下で物を食べないでください」と看護 婦に叱られ、 ふたりでたぶんあれはハイミスだねとか毒 ずきながら一階に降りてきたのだった 紙コップの珈琲にくちをつけながら …俺ら、アンドレのこと何にもわかってい なかったんだな とぼそりといった ときどきの情事で、いろいろはなしてくれ て、じぶんではわかっていたような気になっ ていたのだが ニルスがいる世間話で、最初は普通のあた りさわりのない話だったのが …いつのまにか会話に専門用語が混じり始 め、きいたことのない動物の学名がならびは じめると、南仏のふたりは、会話に参加でき なくなってしまった 逆核酸妨害、遺伝子爆弾、自殺袋蛋白質、 雷管領域、幹細胞の凍結保存 言葉の意味はわかるけれども、ふたりがは なしている話題のどこにどうはまり込む概念 なのかは、まったくちんぷんかんぷんだった ふたりは、しらなかったが、これは、かつ てたがいを熱烈にこころのそこまでえぐりあ ったふたりの、実は照れ隠しなのであった また、そのような 「どうでもいいオーディンの知識」にでも すがりつかなければ、たがいがたがいを自分 の世界にかっさらっていきかねない、ふたり ともの衝動とたたかっているすがただったの である おとなの微笑み、という仮面の下で ふたりは、おとなになりつつあった ふたりの少年の部分のいくつかは、その緩 慢な同義の死に悲鳴をあげていた ふたりは、自殺しない限り、たぶん郷愁の なのもとに、いずれ、年下の友人をつくるだ ろう (…どうでもいい知識というものは、生きる ちからになる 逆境の中で、死の恐怖を紛らわす、ゲーム として、 接ぎ穂のないこころの流体を、対象になが しこむ、ひきょうな営業と、して。 しかし、悲しむべきときに、幼児のように、 泣けなくなる 言い訳するものが、友人から去られるよう に、過剰な知識というものは、人生からじつ はめをそむけている 北の神話の本貫が、マゾヒズムだというの は、ときに博覧強記にも至る繊細すぎるノル マン人の遺伝子の宿唖なのだろう) * 微生物は面白いね ドイツ人有機理論でなければわからないあ りとあらゆる反応がある 正方形平面電子吸引共役二重結合分子を介 して、二元子酸素と二元子窒素がおなじよう なふるまいをする ぼくのなまえがふくまれている酵素が、窒 素分子の分解をする反応を追いかけてみたん だけど、個々の段階はわかるけど、その本質 は、遷移金属の特殊軌道がわからないと駄目 なんだ かんたんな準位理論では概念はわかるけど、 厳密に平衡の移動にかかわる準位の値は、た とえ元子段階でも多体問題なんで、これも液 体窒素で冷やした計算機でないとだめなんだ ってさ 数学物理は、ぼく、苦手だから… * 過去、アンドレは、雪をながめながら気が ついたことがあった 北の神話の主人には、明確なおきさきのか げが、薄い。 南の、嫉妬ぶかいジュノーのようなすがた がない それは、北の神話が、じつは修道院の本質 をもつそれだからだったのではないかと、 快楽と陵辱をうけたあとのけだるい疲労の なかで濃い紅茶をビスケットとともにかじり、 紅茶の湯気のなかに暗い雪景色の街を半裸で ベッドのなかからながめていたときにおもい いたった想念、だった そのじぶんがこんな陽光あふれる土地にい ることが信じられなく、またさむい土地がな つかしく痛いことが、またつらい …つらくなって、かえれなければ、自殺も、 ありだな… ふと、アンドレはそんなふうにかんがえた 野戦病院では、郷愁は病状を悪化させる しかし後日、アンドレはくびすじの銀鎖を、 右手のゆびで、かるくからめてもてあそんで いた。 じぶん達がそうであるように、博覧強記も マゾヒズムも、繊細すぎる業の帰結だ。 「神話氏」が、博学なら、マゾヒズムを通 して、じぶんのなかに、 …女の快楽をも、みたかもしれない 博学は、普通、賞賛される しかし、それは臆病の裏返しであり、また それは賞賛されない きまじめな氏であれば、それを克服し様と して、博学の先天の力とともにあたえられた マゾヒズムの才能をつかって、痛みを謳歌す ることにより、より一歩、勇気にちかづきた かったからなのではあるまいか 神話氏にとって、女神は、友人とたぶんな った じぶんがなにものかわからないからこそ結 果的に渇きという意味で欲深くなってしまう、 アグリッピナのようなアルバイトあがりのき さきではなく。 博覧強記の力をつかって官僚になることも できる神話の力をもつものの半数はできれば、 女性を后として豚のように太らせるのではな く、友人として永遠にうつくしい女神として 遇するべきなのかもしれない そのために、采配は、それといっしょに若 いうちに女性の肉体の快楽をも味わうことの できる才能をも、わけあたえているのかもし れない じぶんのなかに女性を育てることができれ ば、そのものにとって、女性は真に友人と、 なりえる 阿呆のあととりが、結局は抗争で生首とな るより、そのほうがよっぽど賢明なことのよ うに、アンドレには想えるのだが じぶんの体験に対する欲目かもしれないが、 だれのこころにも忍び込む官僚主義と保守主 義に対抗するためには、すくなくとも男性側 にとって、じぶんの内側にあるふかい感情の 機能としての性をもっとひらくべきなの、だ ろうか すくなくともしばしば硬直化した官僚主義 の影には、いろいろもてあました欲求不満の 細君と、不肖のあととりがいる かれらは、じぶんが何物かわからないから、 エスカレートしてとまらない欲求不満を解消 するために殺人プロレスを競技場に見に行く のだ たぶん、ローマに北の神話は、なかったの だろう 労働と称してその実搾取におぼれるものは 家族に胸を張れず、家族に生きる技を教える こともかなわず、かなしいかな彼の家族は、 そう長くぺディグリーを保つことはできない * …あたし、勉強、きらいだったからね 「パスツール」がフランスのひとだったなん て、ぜんぜんしらなかったわ フランスは農業国だったから畜産疫学で伝 染病免疫学は強かったのだが、 羊の育種で家畜改良学はイギリスのほうに 伝統がある、 っていうところはわかったよ でさ、「僕の名前が含まれている酵素」っ てなに?? なに、あのひと、あの若さでもうそんな業 績あげてるわけ??? しんじられない てっきり北で体売ってた、って言うからも っと薄汚れた苦労してるかとおもっていたわ、 なに、あんな秀才がともだちにいるなんて ほんとうは、アンドレって、なにものなの ?????? 田舎娘がはじめて動物園を覗いたときのよ うにアンヌはあきれた顔をした ふう、とトニが溜息をついた 俺らの会話に、あいつは専門用語を避けて いたんだな あんないきいきとした奴をみたのは、はじ めてだった ねえ、アンヌは遠くを見た …アンドレを彼にかえしてあげるべきなん じゃないかしら ううん、とトニは悩んだ 愛着のあるあのからだと、いま見た、ちぐ はぐな才能… あんなモザイクな、人間ははじめてだ …むずかしいことはわからないけど、友人 であるのならば、本人がどうしたいか、だけ だな トニが愛着があるのは、あのからだと、反 応であって、うつわのなかにすんでいるここ ろではない 男色がさばさばした関係になることがおお いのは、そのふたつを割り切って切り離すこ とができるからだろう けなげさは抱いているときには肉体のなか に、別れたあとはあるいていく精神のがわに ある。 あたし、うらやましくなっちゃった アンヌがすねた おとこのこたちって、いいなあ 肩を組んで、おなじ地平線の星をゆびさし ているのよ、そんな勇気のあるさわやかさっ て、どろどろした女達のミルクキャンデーの 世界には、 絶対、ないものだわ おれたちが、できるのは トニが珍しく真面目な顔でいった あいつを縛り付けないでおくことだけなん だろうな まあ、具体的にはいまとかわら……おい ちょっと、お手洗い アンヌが走っていっ た ? あれから二ヶ月だから、…まさか アンヌがもどってきた あげものに酔っちゃった、これ、ラードが ふるいのかもね おまえ、 そうね、ダーツはビンゴのようね アンドレ、なかなか腕はいいわ アンヌは自虐的な表情を浮かべた ---------------------------------------- --南仏27-- 例の強盗は、まだつかまってはいない そう簡単につかまるぐらいなら、かれはプ ロをやっていないだろう 皆には、内緒だが、警察の取調べに、おれ は協力をしなかった 形式的には応じたがわざとちぐはぐな証言 をあげておいた モンタージュなどわざと他人としか見えな い風貌を合成して、そしらぬ顔をしていた 誰か間違ってつかまったら御免かしらむ あそこで即死させようとおもったらあいつ は、できたはずだ でもそうではなかったから、僕はまだ、こ うやって生きている 普通のシナリオなら、僕は死んでいて、奴 は端末のまえで地団駄踏んでおしまいだった はずだ 奴が情けをかけてくれたおかげで、少なく ともあれから今日までの時間が奴から送られ たようなものだ 感謝さえしている、とおもうのは変だろう か うらまれていれば、次には確実に殺される が、そのときはそのときだ せめて誰かが巻き添えにならないように祈 ることぐらいしかできない 僕は誰も恨んでいない うらむ??誰を??なんで??? どうせ望んで生まれてきた世界じゃないじ ゃないか ただ、トニに説得されて、岬の屋敷は手放 した 換金しても、治療費の半分にもならなかっ た くそ いまは、街の中で、飯を作っている 家が近くなったので、トニの友人の女の子 の幾人かは、日もまばらながら、仕事を手伝 いながら料理の手ほどきを受けている しかし、これだけは自信をもっていえる けっして料理を学びながら仕事をしている のではないのだ まったく、ああ、熱湯の前ではしゃぐな、 あぶないなあ ただ、女の子達は物覚えがいい たのしくやっているからだろう それから、僕は結婚も、した わがままなのは承知だがそれでもトニとは ときどきあっている ---------------------------------------- --南仏28-- そろそろ晩秋も終わりに近い十一月の下旬 だった ここでよろしいんですか はだざむいですよ 娘を学校に送ってかえってきたアンヌが中 をすすめたが 男は ここでいいあたたかい紅茶と、ウォッカを ショートでたのむ …? アンドレが、厨房の中で緊張した ついに… 三十秒ほど、走馬灯のようにいろいろおも ったが、昔から使ってきた大して役に立たな いエマージェンシーの回路で、即断した 切所というものは、いつでもふいにやって くる …僕がいこう。 え? お茶の盆を受け取ろうとしたアンヌがいぶ かしげにこたえた 扉を開けた 銅細工の鈍い音がベルとして鳴る …おまたせいたしました さしだされた盆に添えられた手が、女給の それでないことに気づいて、初老の男はふと、 宙を見上げてくわえられた煙草に添えられた、 手を止めた 僕の顔をまじまじと見詰め、ほんとに生き ていたんだな、とつぶやいた …胸を見せてみろ 多少はまだ人通りのある大通りを背にして、 アンドレはよれたコックコートと、そしてそ の下にある黒いシャツのボタンを順次はずし ていった 痩身の、ささやかなしかし乳輪のおおきい 一対の乳首のあいだに、ピンク色にひきつれ たつるつるとしたひろい傷跡が広がっていた 開胸したんだな…そうだろうなあ アンドレはボタンを戻しながら、なにか、 御用ですか と下をむいて静かに言った ほれ、かえすぞ 十年前うばった、古びたカードをオープン カフェのステンレスのテーブルの上におきな がら、初老の男は懐かしそうな雰囲気で、 またたばこをくゆらせた このたばこは、「インディアンのもの」な のだろうか? わざわざ、ここにきたのは、聞きたかった からだ たばこをやはりそっけない色の灰皿におし つけると なんで、警察に嘘をおしえた? おもわずききかえした なんでそれを? この稼業は、つながりがないと商売の上で も、やっていけねえ あれからいろいろがんばって、ま、きれい ごとではもちろんないがな、 いまではおもてむき食品会社の社長よ それもまあ、おもてだけの顔だがね あれから直ぐに、おまえがすんでのところ で命をとりとめたことをちんけなタブロイド で知って、これはまずいと焦ったもんさ しかしおまえは、病院の中だ、リモートで 殺すにしても手下がいる そのころのおれははじかれた身分だったし、 また、安い金ひとつでオカマの餓鬼ひとりと どめさしたのがばれても評判が悪いしな そんで、いつ警察がふみこんでふんじばら れるかとびくびくしていたが、まてどくらせ ど、いっこうにそんな気配はなかった そうこうするうちに、本業がらみで五年食 らって、そしてでてきてからやっと運が向い てきた 最近だよ、警察のなかにできた友達に頼ん であのときの事件の詳細をごっそりしらべて もらったら、やあ、おどろいたね おまえ警 察に全然協力してないじゃないか なんでだ?たすかったとはいえ、俺はおま えを殺した男だぜ 自動商売modeだな、とアンドレは理解し、 すくなくとも、ここの結果がどうあれ、この おやっさんは、自分をクライアントとしてあ つかっているわけだ あのとき、小便でもちびっておけばよかっ た アンドレは自分のなかに分に巣くう小生意 気な人格が許せなくなった しばしの沈黙が降りた …あなたは、わたしの頼みを聞いてくれま した あん? 「突然、自分が消滅するのは怖い、」 撃つなら胸を撃ってくれといったら あなたはわたしの胸を打ち抜いてくれまし た 助かったことなんて、結果です わたしはあのときあなたに感謝さえ感じま したよ 敬語になっていた 複雑な表情が、男の顔に染み出していた …おまえは、馬鹿か もっと人間らしい感情はないのかよ …そんなものは、おとなになる前に枯れま した おとこはふんぞりかえって、秋の空にそっ ぽを向いた …いろいろあったみたいだな、悪かったよ あれからなあ、男はふたたびたばこに火を つけた もちろんこのカードの番号ががせだったこ とに地団駄ふんだのはたしかだが、 ぎゃくに、おまえの八百万が手に入ってい たとしたら、また違った人生だろうとはお もうがね 多少、あの直後に多少しのぎで苦労したの は確かだが、いや、多少どこじゃなかったな それでも本業でしこしこ営業したおかげで、 いまではいくつかのルートで顔になる下地を 作ることはできた 五年くらったのはそのからみの、ちいさな ちょんぼさ この世界でもじつは丁寧な義理と人情の世 界なんだ 結局は気持ちのこまやかなもののほうが、 多少の雑音が出来事としてあったとしても、 残っていくもんさ、もちろん裏切り者は消さ ねばならんがね おまえの八百万が手に入っていたら、俺は それに味を占めて、 同じようなことをくりかえし、あるいはい つか返り討ち、あるいはもっとひどい陥葬に あっていたかもしれない おまえは、いのちをはって、このおれさま の運命を捻じ曲げたんだよ にっこりと笑った おそろしくひとのよさそうな笑顔だった 男はずれた茶色のサングラスを鼻へと押し 戻すと、高額の札を一束、ステンレスの銀色 のテーブルにおいた …これは、うけとれません かなしそうに、俺はいった なぜ? 治療費も結構かかったろう そうじゃなく、いえ、なんていたらいいか ことばがつまった あのときの俺は、あのとき、死にました あなたがしゃべっているのは、あの時殺し た、若造ではありません 僕の人生は、治療室の天井を見上げてめが さめたときにまたあらためて始まったんです ぼくは、ぼくは、殺される前のことは、い つもわすれていたいんです まるで、漫画だ、とアンドレは想った こころのそこからの気持ちは、ことばにし たとたんたちまち嘘に固まる どうやらハイゼンベルグは、ただしいよう だ しばらく、ふたりとも黙った …繁盛しているようだな しばしの沈黙のあとに、「社長さん」はそ ういったそこにいるのは、奥さんだな、と、 柱にすがって、体を硬くしているアンヌを 見た 興信所の報告書にもあったが、 実物のほうがずっと、美人のようだな にっとわらった オカマは卒業したんだな ひとつだけぼくも聞かせてください どうして、わざと急所を避けたんですか かれはふん、といった 前途ある若者が、しぬのはいやだ、と全身 で訴えたからだよ ただ、ただでそれをあたえたわけじゃない 出血多量で死ぬ可能性という馬券におまえを ほうりなげただけだ おまえを殺さなかったわけじゃない おまえは万馬券にあたっただけなんだよ うぬぼれるな 立ち上がって、札束をふところに戻すと、 彼はアンドレのほうにむきなおって、その頬 をなでた ふと、顎を引寄せ、 その唇に男の唇をおおいかぶせ、 強く吸った おどろいたか? こういう立場だと、いろんな接待があるも んだ こういう遊びもまたいろいろやったもんだ 淫売でもあったのなら、あのときやり殺し ておけばよかったぜ にったりとわらった それから、「僕」はやめろ 癖になってい るのかもしれんが、年を考えろおまえはもう、 親父、なんだろ 軽く手を振りながら、去っていった ふう、とアンドレは気が抜けて、場合によ っては弱いアルミニウムの椅子に体を投げ出 した そろそろ壮年の、体重が軽金属のフレーム に悲鳴をあげさせた。 アンドレはふと、アルミニウムの電気精錬 を思い出した これにつまっているものは、潮力発電所の 電気なのだろうかと想った どうでもいい知識を、まるで砂を蹴るよう な意味で思い出しながら。 (四六時中はったりを掛けながら演技を生き ていく あの人生は、やはり四六時中、息が詰まる だろう あのひとたちは、はったりのために必要な らば自分の命をも掛けるのだろうか 僕には、できない ふと、やくざの不幸に、尊敬さえ感じてし まった この感情は、あぶない… インディゴを、とやかくいえない) アンヌは、まだ、からだを固くしていた …あたし、警察に言うわ… …いうな 自分ののどから出た言葉の声音 の、その低さに自分もおどろいていた 警察に言うな トニにも言うな、 もし言ったら ……もし言ったら、僕はきみを殺すかもし れない アンヌの目が驚愕に開かれ、ほどなく大粒 の涙がぽろぽろとこぼれてきた 外の席にほかにだれもいなくて幸いだった どうして、どうして?? あたし、あなたを愛しているのよ あなたはわたしを愛してないの その答えは、アンヌはじつは素面では知っ ている ただ、女性の激情が、理性を押しのけ、言 語をのっとってしまっているだけだった …てんかんのようなものだ 女性の大半は知らない 男性の半分は、他人を愛せないことを 三日後、僕はトニに半殺しになるほど、ひ どく殴られ、朝まで、はげしく陵辱された 絶叫にしわがれた声で、店に、健康上の理 由でオーナーは休むと伝得てくれと電話をし た 急病といううそをついて店を休むのはこれ で二回目になった ひどい人間である俺は、幸せだった 三日、動けなかったが ---------------------------------------- --南仏29-- 伝票や納品書を整理しているときは、アン ドレは銀色のめがねをかけていた とんとん、 どうぞー 後ろを振り向かずに言うと娘が入ってきた ぱぱー その言葉に対する違和感は、永遠に取れな いだろう マリアは来年、十歳になる アンヌが甘やかすおかげで、態度に女の子 独特の、媚がぬけない いつかは躾として矯正しなくてはいけない のかなとすこし悩みの種になってきた日々だ った なんだい、まだ後ろを振り向かずいうとそ の背中に あのーマリア、おねがいがあるの ああ、いいよいってごらん 今度は何をねだられるのだろうか あのねえ、えと、パパと うんどこかにつれてけか パパと、おじちゃんの、 セックスを見せてちょうだい!! ? なぜあたまの重心がずれるのだろう めまいのあとにめにうかんだのは 荘厳なはずのミサが、市役所の、あおじろ い蛍光灯の煌煌とした食堂で、消毒薬の効い た清潔なプラスチックのメラミンの食器のか げで行われている光景だった 紙コップと、セルシウス百三十五度までも 耐える汚物も可能なプラスチックの食器での パーティーは、まるで同性愛者の貧相な結婚 式のようだった。 連中は、自分にとっての大切な荘厳、とい うものを考えることに関する限り少なくとも、 あたまが悪いのだ たぶん多くの宗教に同性愛がきらわれるの は、その行為ではなくすぐ安易に妥協する誠 実さのなさなのだろう 少数派は尊重されなければならないが、そ れはあくまで建前である。保護されなければ 生きていけないのであれば、少数派の子孫は どんどん際限なく退化していくだろう 先祖には立派な神経系があったのに、寄生 のための血管系と生殖のための生殖巣だけに なったのは蟹虱の一族である 寄生退化する動物は、しばしば菌類のよう に無性生殖をする 寄生世代が生殖子を作る場合は、雌雄の区 別のない無性胞子であることがおおい 無性世代とは、他人からあこがれをよせら れる意味での恋や努力とは、無縁なので、寄 生の稼業とは、気楽なものであるらしい 残念ながら積極的に同性愛者であることを なのるひとびとが、たいていはみにくい態度 であるゆえんである 重い病人でないかぎり、公的保護は職業訓 練を義務として行わなければならないだろう あたかも刑務所の社会復帰訓練のように そこに概念としてでてくるのは「施設」で あり、 みなごろしの屠殺場も、もともとは復帰厚 生施設だった 釜をつけただけだ 風向きはいつでも不意に変わる 弱者として認知されることほど、おそろし いことはない おおげさにいえば、そういうことだが、ア ンドレは手に職がない、あるいはつけようと しないわかものがあまりにもおおいことにあ きらめの気持ちを、もっていた。 くびにしなければならないときのことをお もうと、 採用するときにはいつも勇気がいった。 それよりは、自分の趣味をしっている古い しりあいの女の子がいい もうすでにたいていは家庭を持っているの で、あまりながい時間は避けないようだけれ ども * びっくりしてふりかえってみると、娘のち ょうちん袖をあわててうえからおさえている 妻のまっしろな顔色があった アンヌ、おまえ… あ、あたし、何も言ってないわよ 言い訳をすることを事実であると解釈する と、それはもっとおそろしい憶測へとおもい たった マリア、その言葉の意味をわかっているの かい?くらくらした すきになったひとたちが、はだかでおへそ をあわせることでしょ パパ、トニおじちゃんがすきなんでしょ、 クラスの、シモーヌがおしえてくれたの! * ぱぱ、か。 「雛菊」のなきがらは、早春に見つかった が、氷点にちかい水温のおかげで、死骸は、 生前の、うつくしい少年のままだった 心室細動で、血流が止まり、ちからなく気 を失っただろうそのかんばせは、まぶたはち からなくほそめられ、逆にくちびるはわずか にひらき、 その両者はほぼ、おなじすきまで、ひらい ていた アンドレは、そのときこころにつめたいも のが流れ込むのを感じた 折りたためる銃のように、かれをおりまげ、 ひざだちになってかれをあじわったときの夜 のように、 みながひとしくのぞむ体位である、かがみ のまえで四つんばいにさせ、 背後からゆるくあさく、ふかくはげしく、 またゆるくちからをといてかれのからだの緊 張が完全にとけたことをみはからい、 突然に奥までつよく繰り返し叩き込んだ夜 の、 その表情だった 背中に押し付けられた感触を思い出した …彼が、殺しに、来たんだろうか つめたい、みずのなかは、さみしい、と。 ふと、おもったが、たぶん、それはない、 とおもった かれのような、りりしい少年と結ぶことの できる関係では、たぶん性の暴力に似た快楽 と、愛情とは、別のものだ かれのような少年は、愛されることを、拒 否をする かれのような少年の、なかにある語彙では、 「愛されること」というのは、ベッドで受身 の姿勢をささげる、ということにしか過ぎな い かれのような少年は、誰も愛さない ナルシストは、世界しか、愛さない 副産物として、世界から送られた聖なるか てを欲しがるがために、 よせられる媚のなかに、 勘のするどいかれのような少年は、けっし て愛の言葉を、見出さないだろう 夜の水平線に身を投げた彼は、いわば、世 界に還っていった、だけなのだ 余計な知識などないだけ、かれのほうが、 より朴訥で、かつ純粋だ オーディンが実は醜い老残の官僚主義の、 老人であるであるよりは セーヌに、身を投げていれば、僕は、たぶ んかれだった。 * アンドレは、めがねをかけたままつくえの 前のカレンダーをみやった あと、三日で、発見された日としての彼の 命日だ アンドレは、宿でのふたりの少年と、そし て父親の命日には、内心、喪に服すことにし ていた それを人にはしゃべってはいない しゃべったら最後、それはハイゼンベルグ の嘘になる。 とくに恣意的な祈りもない その日は、すくなくとも自ら積極的なこと を控えるようにしているだけだった ---------------------------------------- --南仏20-- やめて、トニ、いやだよ、こんなのいや、だ 側廊のドアが開く音がして、ほどなく、寝 室の入り口が開き、アンヌがはいってきた その日は、たまたま鍵をかけていなかった アンヌは、上半身を裸に投げ出していた その頃はアンヌはまだ学生のような三つ編 みをしていることが多かった 僕は、後背位でトニをむかえいれている最 中だった アンヌが黒いハイソックスのひざで、丈の 短いスカートをゆらめかせながら、ベッドに のぼってきた トニは、にやりとわらって、僕をはがいじ めにしそのまま仰向けになった アンヌはこらえきれない様子でみづからの 木綿のグレーのパンティをむしりとり スカートを引きちぎるように床にほおりな げた 可憐なはずの少女が、きらきらとひかる猫 になった …いやだ アンヌのちいさな細い腕が、僕の胸板にお ずおずとふれ、なでまわした たぶん、こんななめらかな男の肌に触れる ことは初めてだったに相違ない、 女性は、いやだ 興味がないばかりか、アンドレは女性を親 密な意味では嫌悪していた 女性の言葉には、裏打ちがない、 勝手に好きになって、勝手に去っていく そして、多くのものを、うばいながら それよりは、殺してくれるかもしれない暴 力のほうが、アンドレは好きだった うすよごれた野良の雌犬になつかれるより も、ライオンや狼に食われることを望んだ トニの腕力に万力のようにはがいじめにさ れながら、僕はアンヌの暴力にさらされた 愛されてそだった、細い腕がふれるたび、 そこに濃硫酸をたらされて、みづからの肌 が黒く、腐っていくような感覚に、 アンドレはおびえつづけた、そうして、か らだの前面が ほとんど焼死体のようになった頃、 アンヌの女陰が、股間に降りていった あ、ああああ…… それは、いなかくさく、野卑で無遠慮な、 真っ赤に錆びた金具をむりやり肉体の尊厳に 突き込まれて、堅牢な青い結晶に心の壁とな ってかたまった数多くの痛みの尊厳をむりや りに、こじ開けられる恐怖だった こんなことなら未来に遺恨を残さないよう に、去勢しておけば、よかった! 黄色い雛菊を意味する「クリサンテマム」 のはにかんだ笑い顔が浮かんだ トニが、腰を僕の結腸に送りつづける 快感に興奮を強制される、アンドレの硬直 はまだ処女同然のアンヌにきつくはさまれた やめて、やめて、ああ、やめて… アンドレは陵辱者としての少女にきつく貪 られ、犯されていた トニはアンヌの丸い腰に腕を伸ばし、その 腰を恐怖におののく僕の骨盤にはさみ、おし つけて、つよく波を送り、揺すりたてた アンヌがかけあがる 僕は、避妊もなく、緊張に満ちた人生をし ぼりとられた アンヌが、満足そうに、にっこりと笑って いた …殺してやる、 なき濡れた顔の、奥の意識で想った、 固い決意はしかし、ふかく、意識の奥底に、 暗く、しずんだ その、数日後だった、今度はアンドレが生 死の境をさまようことになったのは ---------------------------------------- --南仏30-- べつに、それからいつまでたっても客足に 何の変化もなかった うわさを心配しても、実績や実力はひとを 説得するにもっとも強力な力であることは、 かれが十八、はたちで直感したそのままであ った むしろ場合によってはほかの生き物にとっ ては猛毒である硫化青酸や硫化芳香でさえ、 人生はよき薬味として楽しんでしまうものの ようである …誠実であれば、適量の悪徳は、体によい ものなのだろうか あいつらも、死に急ぐことなんかなかった のに もう青年ではないアンドレは、そうおもっ た。誠実であることに命をかけたかれらを侮 辱することはだれにもできないが。 かれらにいわせれば、たぶん逆にこういう ことだろう 悪徳やずるが安易とむすびつくとかんたん に猛烈な悪臭を発するのだと。 アンドレはおもった それはあくまで人生の表側に出てきてはい けない、ものかもしれない 悪徳は、腐敗を防止する薬味でなくてはな らない くしくも、薬味も悪臭もそのいちぶはおな じ成分である 節度を守れば、 人生は、実は、そんなに悪いものじゃない ああ、あの先生の口調だ アンドレは笑った ---------------------------------------- --南仏31-- なに?? アンヌは栗色のウェーブがかかった長い髪 を、ブラシですきながら、顔を片面だけあげ て、返事をした 僕は、はずしたチェーンを小物入れに入れ ると ひさしぶりだろう、愛してあげるよ、おいで アンヌは、嬉しそうに 最後の髪をすききると、たちあがり、僕の 前に座った アンヌのパジャマを、上から順順にはずし、 左の袖を脱がし、右の袖を抜き、鮭肉色の乳 押さえだけにした 前面のホックを、(アンヌは、この順番で 脱がされるのが好きなので、乳当てはいつも 前開きだった) はずすと、まだ少女の名残を残す、うわむ いた硬い乳房があらわれた、上半身だけを、 全裸にしてしまうと、親指と、残りの指で、 そっと下から、手を添えた あん… 快感ではない、安心感が彼女の呼吸にあら われた 背中を、軽くさすり、彼女の左の乳首、そ して右の乳首へと、交互に軽く吸った くちびるを離すと、彼女は、わたしも、と いってアンドレのレンガ色のガウンをはだけ た いたいたしい、ピンク色のつるつるした平 原が、胸骨の上をひろがっていた アンヌはかろうじて、無事だったアンドレ の、両方とも傷の境界のむこうにある男性の 乳首をその桜色の舌で舐め、桜色の唇で吸っ た これは、レズビアンであるといえた ふたりとも、官能のはなびらを、寝室にい ちまいちまい引きちぎっては、闇に散らせた アンドレは、自分がそうでありたかったか らだを、自分がそうされてきた数々の技巧で 攻めた アンヌはすこしづつ、悲鳴をこころから小 刀で すこしづつ切り出し、 すこしづつ切り出し、 すこしずつだらしなくまきちらし、 ゆかにぽろぽろと取りこぼすようになった アンドレは、愛犬家が愛犬をいとおしむよ うにアンヌのからだをなでまわした 自分がされてきた、技巧を、ひとつひとつ 経験のなかから思い出しながら、この幸運で、 また同時に不幸な少女のからだを狂わせてい った 避妊具をつけ、背後から少女を抱え込み、 乳房をやさしく、時にはげしく揉みこんだ アンヌは左右に首を振り、長い髪がいやい やをしながら、それに従った アンドレは、女性のからだに欲望をおぼえ なかった だからこそ、アンヌは、とても長い時間、 アンドレの愛撫に気が狂い、身を任すことが できたのである このセックスは、純粋にアンヌのためのも ので、アンドレのものではなかった ……ん 眉間に皺を寄せた少女の顔が、快楽に身を よじる 四肢に力を入れたり、背筋をしならせたり、 また両肩と骨盤のあいだで釣り橋のように緊 張をあきらめたり、 緩急をつけて、アンヌは全裸で、アンドレ があたえてくれる 官能と快楽の夜の海をしどけなくおよいで いたのである アンドレが本当に、あたしのことを愛して いなくとも、 う、ん… このやさしさはいまのわたしにとって愛と おなじもの そう信じることに、アンヌは人生をゆだね ることにした アンドレは、アンヌでは達することができ なかった 贖罪の意味をこめて、できるだけの奉仕を する アンヌは、アンドレとのこの情事で、毎回 三、四回はいただきに立つことができた …なんで、あのとき、おろせっていわなか ったの 傷跡の上に頬をのせながら、さみしくアン ヌはアンドレに甘えていた ふふ、これじゃもうお客さんは、とれない わね やさしい同情で、傷跡をなでている …あなたが、死んだらどうしようって、あ たまが真っ白になったわ 仕事を軌道に乗せるラウンチと、マリアの 育児の、おいたてられる日々が一段落をしつ つあるので、 ときどき、ふたりは、夜、話をすることが できるようになっていた おろせっていえばよかったのかもしれない とは、いつもおもっていたよ、実はね マリアがいるから、アンヌはたしかにアン ドレの横にいることができる アンドレは、本当は誰も愛することのでき ない人間であることは、しばらくかれのそば にいれば、誰もがそれを理解することができ るだろう 僕は、本当は怖かったんだ 生まれてくる子が、もし男の子なら、自分 はその子を愛してしまうかもしえないとね、 …それは、どっちの意味? アンヌはたずねた もちろん、両方ともだよ! アンドレには珍しく、声が高くなった 僕は本当は、家族なんてものは欲しくない んだ、理解できない関係で、理解できない愛 なんてものに振り回されたくない …でも、おろせとはいわなかった …生きようと想っている命をむしれなかっ ただけだよ 僕は、臆病なんだ なんとか魚はさばけるようになったけど、 いまだに鳥は無理だ 豚をほふって、ソーセージにできれば、そ こからアウシュビッツまでの垣根は低いだろ うな、 火を通した仕上がりしかお客は見てないけ ど、臓物のレベルでは、さかなと人間はたい して違いはない 僕が、喜々として動物に包丁を使う人間な ら何のためらいもなく、おろせといっただろ う アンドレは記憶を反芻した 生きることは、つらいはずなのに、 強盗に、死にたくないといった自分… 殺すほうが、慈悲だ というようなことを言ったあのやくざにと って、いきるつらさとは、逆に殺しつづけな ければ食べていけないみづからの稼業のつら さなのだろうか 殺人者は、引き金を引くたびに自分を殺し それに麻痺した頃、自分に殺される しかし、それはすべての人間、すべての稼 業について、そうではないのか ただ、代行業があるから、直接には忘れる ことができるだけで。 アテネやローマが滅びたのは、 労働を完全にひとまかせにし、あまつさえ、 恐怖のプロレスをも、無責任にも、娯楽のブ ラウン管で遠くから見ていたからだった 最高の臨場感とは、火の海のドレスデンに 立たなければ、わからないというのに 生きるということは、殺すことだ それは遠いか近いかという違いに過ぎない 殺す場所がキッチンか処理場か 植物から人間までの、 連続の上の数直線か 殺して生きるということが いつかはまた平等に殺されるということで あるのなら いけにえは、高貴な家の子供でなければな らない、ということは賢明なのかもしれない が ひとびとは、それをかたることに、口をつ ぐむ だれも、いけにえを家族から出したくはな いから 孤児や、捕虜が、犠牲になる そこにも、強弱の競争がある 男の子にドレスを着せるということは、一 昔前は、我が子が死刑になる、ということと おなじ意味をもっていた せめてできることは、中庸と浪費を避ける ことぐらいしか人にはできないということか な 欺瞞にすぎないのがわかっていても 菜食主義や四足の獣肉をたべたくはない気 持ちをあながちせせらわらってはいけないね え ただ、たとえばインド人は鳥までは食べて もいいとはいったが、なかなか鳥もまた知能 の高いいきものだ みんなは知らないのかもしれないが、だい たいの機能としてはぼくらのこころは二億年 前にはすでにあった 人間の性の染色体の直接の先祖は、一億年 前にはすでにあった 人類学が教えることは、われわれはあまり にも動物とおなじ資産を使いすぎていきてい るということなんだ 自分の肉だと想って、お肉はのこさず、た べたまえ 先生の講義に、夜の教室が、笑った ---------------------------------------- --南仏32-- おろせ、といったほうがやさしさだったか もしれないと、おもうかい きみに欲望を全然、かんじないのに アンドレは、ふつうの男性が異性に欲望を 感じることがじぶんの生理の常識から考えて、 理解できなかった 理解できないから、想像するしかない 憶測として、その力学を 女性にあるずるは、男性にもかたちを変え ておなじくらいの重さであるから、そのこと だけを文学的に非難することはできないだろ う そうは、おもわないけど あの子がいなかったら、あなたはわたしの ことなんて、どうだっていいんだもんね さみしそうにアンドレの右手の指をもてあ そびながら言った そこには、二つのリングがあった あなたは義務感で、わたしたちをそばにお いてくれているんだもんね こんなことになるのなら、むりやりあなた を犯さなければ、よかった あたし、馬鹿だったわ …うまれてきたのが、女の子でよかったよ それは聞いたわ そうね、あなたくらい欲望にだらしなかっ たら、坊やと寝ることぐらいなんの禁忌もな いでしょうしね …僕は、人間のくずなんだ 遠い目でいった シーシホスの神話を、むすこにつたえた ことに、なったかもしれない アンヌはアンドレの首筋に、うでをまき つけながら、ささやいた 「…おとこのこ、つくってみる?」 「ばかなこと、いうなよ」 アンドレは泣きそうな顔で、いった。 --了-- ----------------------------------------